【映画評】セデック・バレ(2011,台湾)

 今回紹介するのは台湾映画「セデック・バレ」です。仕事中にBGM代わりに映画を探していたんですが、これはながらで見る作品ではないwということできちんと時間を取って見ました。
 舞台は日本統治時代の台湾。1930年に起きた台湾原住民「セデック族」による抗日反乱「霧社事件」を題材にした作品です。本当にすべての日本人に見てほしい作品。日本史の一部であり日本人として知っておくべき歴史ということもありますが、それを抜きにしても人物の内面描写、台湾の美しい自然やセデック族の歌、踊り。どれもが素晴らしい。主人公のモーナ・ルダオはじめ原住民の俳優の力強さもよい。
 セデック族は高地民族で、霧深く急峻な山岳地帯で彼らは生きていますが、台湾にこんな場所があるのかと行ってみたい欲求に駆られます(ただ、とても観光ではいけない場所のような気はしますが)。
 映画は4時間半にわたる超大作でAmazon Primeでは全編、後編に分かれています。全編は、台湾割譲からセデック族の蜂起まで。後編は反乱が鎮圧されるまでの過程が描かれます。前編は日本人統治下のセデック族の部族としてのアイデンティティや内面的葛藤が丹念に描かれます。後編は戦争アクション感が強く、悲惨でシリアスな描写はあるものの全体的にはエンタメ感が強い作風。後半は割とトーンが軽くぶっ通しで見るときに有難い構成になっています(監督はこれを狙ったのだろうか?)。
 時間がないという方には、ぜひ前編だけでも見てほしいなと思います(もちろん時間を見つけて後編も見てもらう前提で!)

さて、ここからもう少し深堀(ネタばれを含みます)。

【統治時代と日本人】
 統治時代、それも台湾割譲から始まる台湾征伐、皇民化教育、そして反乱の鎮圧が描かれるのでどうしても映画は残酷な「負の歴史」を描くことになります。この手のテーマを扱うとどうしても植民地統治の「善悪論」に陥りがちですが、本作品は反日映画などではなく、セデック族の内面的葛藤とヒロイズムを描いた映画。差別的な日本人が登場するので不慣れな人は不快に感じるかもしれないが「こんなもんだっただろうな」という程度のもの。全体として中立的に描かれていると思います。この作品では様々なタイプの日本人が描かれます。(原住民を差別する日本人、理解に努める日本人など)また、日本人に関する象徴的な描写(日の丸、桜、折り鶴)、当時の台湾人から見た日本人像などが散りばめられているのも日本人として興味深い。
 印象的だったのはセデック族が日本に行った時の話。『内地の日本人は台湾にいる日本人より自分たちを良く扱ってくれた』『彼らは食事の際に、複数の社の人間を同じテーブルに座らせた。我々が反目しあっているのを知っているのに』。こういった会話から、外地の台湾でこそむしろ差別が強かったこと、日本がセデック族の内部の反目を利用して統治をしようとしていたことなどが示唆されます。あるいは、「社」間の対立というものに日本人が無頓着だった、そういう原住民に対する不理解だったのかもしれません。
※「社」はセデック族の中のより細分化された部族グループのことで、互いのテリトリーを巡って反目し合い、日本統治下以前は互いに殺し合っていた。いわゆる「首狩り」であるが、日本の統治時代になりこの風習は禁止された。この首狩りの風習のことを当時の言葉で「出草」という)。

【日本人化とセデック族の内面的葛藤】
 前編では「日本化」政策によって部族としての尊厳を奪われていくセデック族の内面的葛藤が丹念に描かれます。部族の誇りを守りたい、差別をやめない日本人にやり返したい、見返したい。その一方で、日本軍の強大さも理解しており、抵抗すれば部族ごと抹殺されてしまう現実。
 「内面的葛藤」と簡単に書きましたが、この葛藤の時間軸は35年に渡ります。1895年に台湾が日本領となり、霧社事件が1930年のこと。原住民の中には日本の統治下で高等教育に進んだものもいた。また日本人と結婚するものもいた。しかし、どんなに日本人化に努めても差別はなくならず、心に巣食う差別だけでなく同じ職務でも原住民であるとうだけで給与が低く設定されるなど制度的にも差別が存在した。この35年という月日の中で、日本人化の努力が認められない不満、部族の誇りが奪われていく不満、なくならない差別、そして部族の中でも「日本人化」を受け入れられるものとそうでないもの軋轢、対立。こうした葛藤、対立が霧社事件という反乱につながっていきます。

【武装蜂起、鎮圧、そして真の自由】
 後編は蜂起が拡大し、それを日本軍が鎮圧する過程が描かれます。これは史実を踏まえつつも、戦闘シーンはかなりデフォルメされています。これはエンタメなのであまり深く考えず楽しみましょう(日本軍弱すぎw。そしてラストのセデックの子供が奪った機関銃で突撃していく戦闘シーンなんかほとんど第二次大戦の様相)。
 ただ、この反乱の鎮圧には数千人の日本軍を動員してもない2カ月程度を要していたこと、また航空機や大砲まで動員して行われたのは事実のようです。劇中では討伐が思うように進まない日本軍が毒ガスを日本本土から取り寄せ使用する描写がありますが、これは諸説あるよう(wiki情報)。兵力に劣るセデック族は、日本軍の武器を奪いながら急峻な山岳地帯、ジャングルという地の利を利用してゲリラ戦を展開します。蜂起したセデック族は300人と言われていますが、討伐に苦労しただろうことは、想像に難くありません。いつの時代も弱者はゲリラ戦を戦わなくてはならない。
 セデック族側も一枚岩ではなく、すべての社が蜂起したわけではなく、蜂起に参加した社は6社のみだった。蜂起に参加する社とそうでない社、あるいは日本人化した原住民の葛藤。日本人の側にたつのか、セデック族として死ぬのか。ここに2つのアイデンティティを持つ当時のセデック族の葛藤があります。本作品で出てくる原住民「花岡一郎」「花岡二郎」は実在の人物ですが、蜂起後に日本語で遺言を残して自決します。(一郎か二郎か忘れましたが)自決の際は、夫婦で和装をして死にます。この辺の描写は史実か不明ですが、日本人になろうと努めてきた自らの生き方に対する「尊厳」を感じることができます。
 自決の直前に、彼は自決を見守る仲間に尋ねます。「私は日本人として死ぬべきか、セデックとして死ぬべきか」。仲間は答えます。「どちらでもない。真に自由になれ」
 この辺りは、ウェイ・ダージョン監督の別の作品である「KANO1931」に通ずるものを感じます。KANOでは、登場人物たちの成長と、台湾が近代に向かっていく過程を並行して描写し(子供の出産、烏山頭ダムの完成が同じタイミングで描かれる)、日本の台湾統治を近代台湾の始まりとして、そこに苦しみや差別といった「生みの苦しみ」を乗り越えた、歴史の始まりとして描かれていました。この「どちらでもない、真に自由になれ」というセリフにも、二者択一ではない、新たな次元が提示を感じます。

【最後に:真に生きることとは】
 本作品にはいくつものテーマが散りばめられていますが、その一つは「セデック族への挽歌」でしょう。いや「賛歌」というべきかもしれない。決してこの作品は思想的に偏りのある作品ではないし、何か歴史的な立場を推奨したりする作品ではありません。しかし、全体的なトーンとしては蜂起したセデック族の「勇敢さ」を感じざるを得ない。
 歴史の中には、負けるとわかっていても行われる戦い、戦争、が数多くありました。それは来世への信仰が衰退した現在では、同じようには起こらないかもしれないが、今もなお、現在進行形で世界で起こっていることです。自分たちの国家を作るために、戦っている人たちがいます。あるいは、この国際社会で少しずつ尊厳を奪われ、陰に陽に抹消されている人たちがいる。その意味ではこのセデック・バレという作品は歴史ドラマでありながら、現在進行形の作品であると言わざるを得ない。
 ほとんどの日本人は、このような尊厳の危機を経験することはないだろうけれど、セデック族と同じ境遇に置かれたとき、死ぬまで尊厳を奪われていきていかなければならない絶望感の中にいるとき、果たして「蜂起しない」という生き方を貫けるのか。普通に考えれば無駄死になんかしたくないと思うだろうが、それはやはり「無駄死にするよりもっと良い生き方がある」と思えるからであって、真の絶望に直面したとき、やはり人間は死を賭して戦うのではないか、と思ったりなどする。
 セデック族の言い伝えの中では「勇敢なものは死後虹の橋を渡り、永遠の狩場へ向かう」とされている(※狩場、はセデック族が先祖代々から守ってきた非常に重要なもの)。これは、イスラム教の「信仰を貫いたものは、永遠の美しい天国へ行ける」という教義にも似ています。こうした死を克服する信仰があったからこそ、命を懸けて百死零生の戦いに身を投げることができたのではないかと感じます。
 さて、「結果よりも意志が大事である」という考え方をほかの方がブログで「陽明主義」と言っていましたが、負けるとわかっていても、義に生きて死ぬことが大事であるという陽明主義は、セデック族にも当てはまるし、我々日本人も先の大戦を陽明主義によって戦っていたわけです。これを狂気というべきか、しかし生きるとは如何に死ぬことであるか、という思想もまた、それは真理をついているとも思う。死を克服する信仰を持たずに死を迎えることが、本当に幸せなことなのか。そんなこをもまた、考えさせられました。



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