拒絶~「保つ」ための受容と拒絶~⑭

2.拒絶の果たす役割
 関係を変化させながら保つために必要である受容の必要について主に述べてきたが、では拒絶はどのようにとらえることができるのだろうか。

人間関係は切り離せないものである一方、切り離して考えなければ生きることはできないが、この「切り離す」という言葉は「拒絶」と置き換えることができると考える。


 人は何かを拒絶しないで生きることは不可能である。

拒絶が許されない世の中では、全ての人やものに対し嫌悪感を持ってはいけず、言われたことは何でも受け入れなければならなくなる。

そしてそれは自分を偽って生活をしなければならないことであり、自己嫌悪につながるといえるだろう。

また、人によって意見が食い違った際、その全てを受け入れるということは不可能である。

食においては、全てのものを食べるべきだとされ、同時に、そこにある命のことを考え全てのものを食べるべきではないとされることになるだろう。

よって、私たちは生きるためにはあるものに対し、受け入れると同時に拒絶することもしなければならないと考える。

そして拒絶する対象であるものや自分を受容することが求められるのではないだろうか。

このことを死と結びつけて考える。

死は恐ろしいもの、避けたいものとされる。

私たちは普段の生活で身近に死を感じながらも、それについて無意識的に隠すことや避けることをし、深く探ろうとはしない。

一方で、死は興味や好奇心の対象としても扱われるものである。

人は時に死体や解体ショーやグロテスクな映像に惹きつけられる。

現代の社会ではそういったものがエンターテイメントとして扱われるのに対し、それらに興味を示す人間は冷酷だとして拒絶される。

しかし、誰しもが持つ死への興味を拒絶するということは、人間である相手を人間ではないと拒絶をし、同じく人間である自分自身をも拒絶していることになるのではないだろうか。

一方で、人間は死に関心を持つ人間を遠ざけたいと思い、自分を憎む相手や殺人犯に対し怒りや恐怖を覚えずにはいられない。

この怒りや恐怖といった感情を拒絶し捨て去ろうとすることも、人間である限り不可能である。

よって、私たちは自分が死ぬまで受容と拒絶は続くのではないだろうか。

そしてそれは自分が死んだ後もあるものであり、言い換えれば受容と拒絶の関係は人間がいる限り保たれているものだといえる。

また、そこに生まれる不安や限界というものも、人間がいる限り消えることはない。

私たちは自分のためにあるものを殺して受け入れることを繰り返し新たな関係を作っていくことで、自分自身の死を知ることにつながるのではないかと考える。

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