拒絶~「保つ」ための受容と拒絶~③

1.人があるものを拒絶する場面
 人があるものを拒絶する際、その理由として、「ただ何となく」というものに加え、自分とは異質なものであるため受け入れられない、と考える人が多いのではないだろうか。

この際、他人やものを自分とは切り離して物事をみているといえる。

しかし、果たして他者と自分は違うものとして切り離すことはできるのだろうか。


私たちは他者と関わる経験を通して自分の考えを形成し、それに基づき発言や行動をする。

そして他者との比較を通して自分とはどういうものか理解を深めていくものだと考える。

例えば、「私はこう思う」というように自分の意見を言う際、その考えは自分の中にある、自分ひとりが考えているものだと人は思う。

しかし、そのような発言は、過去に親、先生、友人といった様々な人の話を聞いたものを基にし、自分の経験と結びつけて判断して言ったものであると考える。

これはほとんどすべての言動にあてはまるといえる。

ある言動をするのは自分自身であるが、そこにはこれまでの人生で積み重ねてきた他者との関わりがあるのではないだろうか。

言い換えれば、自分というものは他者がいるから成り立っており、自己と他者は切り離せないものであるといえる。

他者を介してしか知ることができないという点は、死も同様にいえると考える。
では、人はどんな時にあるものを拒絶しようとするのだろうか。より深く考えるため、自身の例を取り上げて考える。

私は周囲に対して媚を売るような人物に対して苛立ちを感じたことが多かった。ここでいう媚を売るとは、他者を褒める、友達が多い人や年上の権力者が喜ぶようなことをする、といったものである。

その時、対象となる相手に対してわざとらしくて不快だ、やめてほしいと感じ苛立ちを覚えた。

しかしその後しばらくして自分の行動を振り返った際に、自分自身が人に対し本音で接することはあまりなく、相手が気に入られるために必死に演技をしていた面があるということに気がついた。

そのような自分は受け入れがたく、直したいと思いつつもなかなかそれができず自己嫌悪に陥ることがよくあった。

この事例からいえることは、嫌悪感を抱き近づきたくないと思った相手と自分は相違するものではなく、実は共通するものがあったということである。

言い換えれば自分のコンプレックスと重なる点を他者に見出し、拒絶しようとしたということである。

つまり、人は無意識のうちに自分と相手に共通点を見出した際に嫌悪することがあるということではないか。

よって、あるものに嫌悪感を抱くということは、自分に嫌悪感を抱いていることだといえると考える。

しかし、あるものを拒む際、多くの人は自分が自身の嫌だと思う点と相手の嫌な部分に気付かないままである場合が多い。

このように、拒絶に関しては疑問点が多い。考えれば考えるほどわからなくなる拒絶のことをより深く考えるため、今回は私たちにとって最も身近なものの1つのである食にまつわる拒絶について取り上げて考察していく。

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