(死について)拒絶~「保つ」ための受容と拒絶~

はじめに
 私たちは普段、ニュースや新聞記事を見て、「誰彼が死んだ」「あの人が殺された」というように、死を意識して生活を送っている。
「死ぬ」という言葉を口に出して使うことも珍しくなく、私たちにとって死は身近なものとなっている。
しかし、私たちは「自分が死ぬとはどういうことか」と問われたら、うまく答えることができるだろうか。少なくとも私はできない。
死ぬとはどういうことかを知る手段には、他者の死や動物の死を聞くことや体験するというものがある。
しかし、自分自身が死に直面したらどうなるのか、死んだらどうなるのかといったことは自分が死ぬときにしか分からない。
たとえもし死んだとしても、意識がなくなるため、人は永遠に死とはどういうものかを理解できないといえると考える。

 例えば、人生はいつか終わる、1度きりだ、死んだら全てが終わる、ということをよく耳にする。その一方で私たちは、自分や周りの人は生きているのが当たり前だとも考える。
また、私たちが普段の生活で、死を目に見えるものとして捉えているのは、娯楽として扱われているテレビ、映画、漫画、本などを通してである。それらは死の尊い面や生々しい面を映し出しており、私たちは様々な死を捉えているといえる。

では、そのようなものを通して私たちが捉えている死とは、どのようにいえるだろうか。
自分では理解していると思っているようで、実際には考えれば考えるほど分からなくなっていく死というものを、今回は食というものから考えていきたい。
「食べることは生きるために必要」などと、私たちの基本的原則として取り上げられる食は、死と密接に関わっている部分があると考えるためである。

 この章では、カフカの「変身」を通して、食ならびに死について考えていき、そこから実際に私たちは死というものをどのようにとらえているのかということについて、さらに深く考えていきたいと思う。

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