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必然

私は人が嫌いなくせに、すぐに人のことを好きになる。 良く思っている人が望むのならすぐ一緒になったりもする。
けれど、どんなに好きな人でも長く付き添うことは無理なのだとどこか決めつけている節がある。
私自身が思考した上で無理だと思っているというよりは、きっと無意識下でそう感じていて、その感情に自分でも気付いているのだ。
これは諦めなのか、はたまた本当は“好き”ですらないのか、正直私にはさっぱりわからない。
今まで抱いてきた“好き”という感情が間違っていたとすれば、私は今になって初めて人を好きになったのかもしれない。


「愛してるって言葉、なんだかピンとこないよね」

先日、伊豆へドライブに行った時に彼が言っていた。

「それすごい分かる。ピンとこないから1回も使ったことないよ」

「僕もだなあ。あ、でもきみにだけ1回言った気がするな」

「え、そうだったっけ?
なんというか、愛おしいって言葉は凄くしっくりくるんだけどね」

「すごく分かるよそれ。でもほら、スピッツは愛してるの響きだけで強くなれるってさ」

「うーん。スピッツは好きだけど、わからん!」


我々はやたらと感情に素直なようだ。
世の中の恋人たちが当たり前のように使っている「愛してる」がよく分からない。
分からない言葉は使わない。 そこが共通してるのってなんか変だな、と少しおかしく思った。
それから、馬鹿正直な私は仕事中に「愛とは」などと、愛についてGoogleで真剣に調べたりした。
なんだか最近はずっと浮かれている気がするなあなんて思いながら。
この文章を書いていて少し分かった気がする、「愛してる」っていうのは相手を慈しむこと?

恋愛と結婚は別だとかそうでないとか、
そんなことを議論する人々がいるが、そもそもそんな事は考えるまでもないのではないかと思う。
私の両親は不仲であったため、結婚というのは実質的には不幸への片道切符のようなものだと思っていた。
けれど、きみとならずっと一緒にいれる気がする。きみとなら結婚してみてもいいかも、そう思える人に出会えた。 今までの私の在り方をみるみる変えていってくれるような人だ。

物事はすべて必然であり、日々のすべては伏線である。
そこに私達が思考することはないのだ。
善い事も悪い事も、運命のためにすべて必要な事だと私は確信している。後悔することはあっても、無駄なことなどきっと1つもない。
けれど、私はきみのことだけは後悔すらしたくないと強く感じる、この感情すらきっと必然で、きみと私の運命の伏線なのだ。

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