『あなたへの社会構成主義』という本を読んで感じた私的なことども
最近、ケネス・J. ガーゲン著『あなたへの社会構成主義』という本を読みました。
社会構成主義というのは、「世界の様々な事象とは人間の認知が、関係性を通じて生み出したものであり、本質的で客観的な真理は人間には観察不可能」とする立場です。
僕が社会構成主義を知ったのはnoteを始める直前で、概要をみただけでも、どうも自分の思考内容と近しい気がして、どうも僕が主張していることは社会構成主義にあたるのではないかと考えていたんですが、いざ読んでみると想像以上に主張内容が似通って(特にこの記事)いました。つまり、僕は読む人が読めば、「ああ、これって社会構成主義だよね」とすぐにわかるような内容を、さも自分のオリジナリティであるかのようにドヤ顔で述べていたわけです。恥ずかしい。
まあ、こういうのって結構「アマチュアあるある」なのかな、とも思います。そもそも「素人が思いつくようなナイスアイデアは誰かがすでに考えている」のが当たり前で、僕の脳味噌で考え付くようなレベルの話は世の中の誰かが既に発表済みだろうなって感覚は常にあって、それ自体に驚きはなかったのですが、あまりにも僕の言いたかったことが意を尽くして書かれているので、僕のnote読むより、よっぽどわかりやすし、面白いのでおススメです。
ただ、ここからアマチュアリズムの意義について考えることがあったので、それについて。
アカデミックな論文を書く場合、周知のとおり、先行研究の調査が必要となります。自分の研究テーマについて、今までにどのようなことが明らかになっていて、どのようなことがまだ未解決なのかを把握するためです。しかし、僕は個人的な探索をはじめた当初、あまり先行研究の探索にリソースを割かず、むしろ畑違いと思われる分野を拡散的に調べていく手法をとりました。
これは僕のリファレンス能力が乏しいという実際的な問題もあったのですが、先行研究を足場に組み立てていくと、どうしても既存研究の文脈に絡めとられるのではないかという懸念があったためです。たとえるなら歴史作家にとって、織田信長が物語的なコンテクストによって消費され過ぎたことで、新しい織田信長像を作ろうとしても、既存のイメージから脱却できないような羽目になると考えたからです。
もっとも、これは一方で独善に陥る可能性が高い手法だともいえます。また効率が悪く、その道の分野からすれば既知の情報を、わざわざ自分で再発掘する(まさに僕がこれでした)ようなことも起こります。
ただアマチュアリズムの特徴として、独善であろうが、効率が悪かろうが、誰かから求められた仕事でないため、文句を言われる筋合いはないという強みもあります。僕の一連の文章は大したことないようにみえますが、これでも勉強したり考えをまとめるのに、数年できかない年単位レベルの労力がかかっています。こういう気楽さは、持たざる者の特権ともいえます。
そもそも健全なアマチュアリズムとは、答えを提示することではなく、良質な問いを投げかける力にあるのではないかと思います。
王様が裸であることを喝破した子供は、自己保身や常識や体面を重んじる大人の世界とは対極にある存在です。
しかし、より重要なのは、「王様は裸だ」という子供の問いかけによって、自己認識を変革したのは大人たちの側だったということです。大人たちは子供の発言を、無知ゆえのものだと決めつけ、取るに足らないものだとすることもできたにもかかわらず、です。
もし子供が、それを自分の力によるものだという傲慢さを抱いたとするならば、彼は心の内に新たな裸の王国を築き上げ、その小さな玉座に自らが座ることになるでしょう。健全なアマチュアリズムであるためには、プロフェッショナルが厳しい職業倫理をもつのと同じように、絶え間なく自己の独善性への内省によって成り立つのではないかと思います。
とはいえ、このnoteに書くべき内容に、ある程度の目処が付いたら、効率的に知を構築するためのインプット方法についても、挑戦していきたいなと考えています。
最後に。
最近、社会構成主義だったと判明した筆者の「人間の徳性に期待することなく、経済的合理性の積み重ねによって世界平和を実現する方法」を考えるマガジンはこちらからになります。興味があれば、是非。
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