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In The Cave#10 その後のヨウス

洞穴からこんにちわ。
振り返ると節目節目で、いつも誰かに
手を差し出されてきた気がします。
その手を、握り返したり
振り払ったり、手放したり。

私は、上手く誰かに手を差し出す事が
出来ているだろうか…


チン事件の後、私はツイッター民となり
それなりに楽しく過ごしていた。
ちなみに、ドラマーkは秋元さんが亡くなる前に秋元さんと友人関係に戻ってます。

そして秋元さんは前のバンドを続けず、新しいバンドを始める事に。
それと平行して、これまた新しいプロジェクトに着手すべく、材料集めとして秋元さんは取材を始めた。
私は、その取材を受けた1人でした。
後々思い返してみると、アレは面接だった気がします。

最初のライブで撮った写真を、SNSで載せても良いか訪ねた事があった。 
載せる画像を一応見せて下さいという返事だった。
秋元さんのライブでは映像を使う為、諸々の大人の事情があるからだ。
早速、何枚か画像を添付しメールを送ると

「良いですね!」

気付いたらスタッフ要員となっていた。
目まぐるしく自分の世界が変わり始めた。
主に雑務と、リハとライブ本番の撮影が私の担当でしたが、言われなくとも何をすべきか自分で考え行動していた。
何が正解かなんて分からなかったが、それでないとダメな様な気がしてた。
秋元さんは人に厳しいけど、自分には更に厳しかった御方なので。
毎回、緊張し過ぎで吐きそうだったよ…。

秋元さんのバンドを撮影していたAさんには
何度も相談した。
まさか、自分が彼女のあとを務める事になるとは…。
でも人生で1番、人として成長できた時間でした。

取材→スタッフ任命から約1年後に
東日本大震災が起こった。
それ以後、秋元さんは沢山の作品を残そうと全力で制作活動に没頭していた。

良く言っていたのは
作品を作ってる間は「俺、天才!」って
テンション高いけど出したあとは、すんごく落ち込む。皆「買いました」って報告をしてくれて、それは嬉しいけど、その後(感想)が無いから。
それは、自分の作品にそれだけの力が無かっただけのこと。精進するのみ!
自分しか自分の作品は作れないし、誰にも代わってもらえない。
孤独をさみしいと思う人間に、クリエイターは向いてないね。

と。

そんなに自分を追い込むと禿げますよ?
そんな返答しか出来なかった。

秋元さんの生活を羨む人が、皮肉交じりの言葉を投げてきたらしいけど
秋元さん以外には、絶対できない生き方で
誰にも真似出来ないと思う。

もし、オレが3日間SNSに顔出さなかったら
しんでると思ってくれ。

冗談とも本気ともとれる言葉が
本当になった日
私は秋元さんに声を掛けたが、返事が来ることは無かった。

嫌な胸騒ぎで、過ごした数日後
秋元さんの訃報が入った。
なぜか、なんの感情も無かったし
涙も出なかった。

私は、秋元さんが亡くなる少し前に
スタッフを降りていた。
葬儀に参列出来る人はかなり限られていた為
私はその様子を逐一、伝えてもらっていた。
棺の側に、私が撮った秋元さんの写真が
飾られているのを見て、何かが解けるように涙が流れた。
人生の道標だった人が世を去り
私は路頭に迷い、気力を失くし音楽から
離れるつもりでいた。

しばらくして、私に差し出された手は
関西弁の人達だった。
この話は続かない。





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