現在の日本人には尊厳死という概念自体が早すぎると感じている話

2020年7月、医師が女性のALS患者に薬剤を投与して死亡させたという事件が起こりました。

医師は「嘱託殺人」の疑いで逮捕されていますが、詳細はまだ明らかになっていません。

SNSで知り合ったのが問題であるとか、安楽死と尊厳死の違いがとか、医師の人間性が、とか色々取沙汰されていますが、私個人はその辺りの情報が本来大切である「患者さんの死の在り方」とごっちゃにされてしまっているのかな、と感じました。

誰しも最期を迎える時がある、その最期をどうやって迎えるか、あるいは、予測しえなかった急変にどう対応するか、という思いについて過去、「人生会議」ポスターが話題になった時に記事にしました。

こちらを読んで頂ければ大体言いたいことが書いてあるのですが、現在元気で通常の生活を支障なく送れており、医療から遠い場所にいる人には「何かあった時」を想定するのはすごく難しいことだと思うのです。

だから、いくらえらい政治家の先生が「この機会に尊厳死の議論を」と仰ったところで、想像しえないことは議論のしようがない。

それは今まで「死を、障害を、病を、そして生ということを日常から切り離してきたことの弊害」であるとも言えると思うのです。

「何かあったら病院に行けばいい」「何かあったら施設に入れればいい」

そこで何が行われているかは、「詳しくないから分からない」「詳しく知ろうとは思わない」

それは実はとても恵まれていることなんだけれど、ちょっと恵まれすぎていたのかもしれない。

その環境は「普段死や障害と向き合う環境、死や障害と向き合った時に十分な議論が行えるような精神」を育てる社会ではなかったのだと思う。

「死にたくない、生きていたい」と思う気持ちはほんとう。

「自分で排泄もできない状態で、人の負担になってまで生きていたくない」と思う気持ちもほんとう。

全然関係ないけど、「進撃の巨人」冒頭で、巨人に潰された家の下敷きになった主人公の母親が、まだ子供の主人公たちに「逃げなさい!」と叫び、その直後口を押えながら「・・・行かないで・・・」ってつぶやくシーンがあるんです。

どっちも本当の気持ちだよな、と感慨にふけったことがありました。それに似ている。

今の日本人はその「死」に、その「生」に、充分な議論が行えるほど知識や経験や、思いや考えを深める環境なのかと言われれば、残念ながら首を縦に振ることはできない。

ではどうすれば良いと考えているのか、という点に関しては、上記記事を参照してください。

それもまた、社会としては十分に機能できるような状態ではないとも考えているが故に、現時点で「尊厳死の可否を口にはできるほど、私も考えに至っているわけではない」ということを申し添えておきます。



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