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ずっと秘密にしたくなるマスタリングツール「Elevate Mastering Bundle」:Newfangled Audioいったい何者?

みなさんは「音圧をあげながら音を綺麗にして粒立ちを良くするやつないかな~」と思ったことはありますか。

あります。

それが、「Elevate Mastering Bundle
Newfangled Audioから販売されているオーディオプラグインです。

今回はそんなNewfangled Audioの歴史とともに同社が販売するプラグインについて記述していこうかと思います。



Newfangled Audioの軌跡

開発者・ダニエル氏の経歴

Newfangled Audioはソフトウェアエンジニアであるダニエル・ギレスピー氏(Daniel Gillespie)によって立ち上げられたオーディオ制作ソフトウェアブランドです。

氏はマサチューセッツ大学(1998-2003)在学中、オーディオ業界のパイオニア的存在であるアメリカの老舗オーディオ機器メーカー・Eventide AudioのジュニアDSPエンジニアのインターンに参加。

その後13年もの間、Evntideのエンジニアとして働き、同社のマルチチャンネルエフェクターH8000やすべてのギターペダルの開発に携わり、プラグインビジネスの立ち上げにも貢献。
その手腕は、13年という数字に表れているかと思います。

そして、製品デザインとオーディオ処理の技術の両方をEventideで経験したダニエル氏は、2015年の1月、オーディオ制作ソフトウェアブランド、Newfangled Audioを立ち上げるに至ります。


初プロジェクト「Elevate Mastering Bundle」

Evetide在籍中、当時社長のトニー・アグネロ(Tony Agnello)氏のサポートもあり、ダニエル氏自身のアイデアの実現に動き始めます。

実はこのプロジェクトが始まるよりも1年前に、ダニエル氏はEventide社内のプロジェクトで、「音声成分の分離」について研究しており、これに関して氏は「オーディオエフェクトのためのトーン/トランジェント構造分離(Tonal/Transient Structural Separation for Audio Effects)」として特許を取っています。

この技術は、複数の音声を「トーン」と「トランジェント」に分離しそれぞれを独立してエフェクトなどの追加処理をすることを可能としています。

この「トーンとトランジェントの構造分離によるサウンドの処理」がのちのプラグインの大きな特色として組み込まれていきます。

そして、「Elevate Mastering Limiter」が完成し、Eventideはプラグインの配信を申し出、ついに世に公開されることになります。その「Elevate Mastering Limiter」に加え「 EQuivocate Auditory EQ」「Punctuate Auditory Transient Shaper」「Saturate Spectral Clipper」の4つがバンドルされた「Elevate Mastering Bundle」としてリリースされました。

氏は、「聴覚モデルと機械学習を組み合わせることで聴感に頼った処理を排除したマスタリングを可能とする」と表現しています。

確かに、従来のクラシックなオーディオエフェクトでは、信号に対しての機微な処理は自身の耳を頼りにつまみを微調整する必要がありました。それは、気候や体調や制作環境にも依存するうえ、エンジニアによって調整のバランス感覚に差があります。

氏の製品からは、「経験に基づくエンジニアリング」から「合理的でクリティカルな処理」へと時代を変化させていきたいという推進力を感じさせます。

Elevate Mastering Bundleの誕生

議論を生んだ「Elevate」

ついにNewfangled Audioから発売されたElevateですが、発売当時はいろんな意見が飛び交ったようです。それは発売当初の「AI」プッシュが原因だと思われます。

公式ブログより

今となっては大規模自然言語処理や画像生成技術の分野で多種多様な躍進を見せるAIですが、発売当初の2018 2017年代では、画像認識の精度を向上する研究や自動運転の研究開発がおこなわれているにとどまり、消費者目線での「AI」という言葉に対する印象は、まだSFの世界とどまっていたのかもしれません。それゆえに、このAIないし人工知能というコピーは購入者にとってある種のノイズになっていたのかもしれません。

しかしこの件について氏はブログにてこう語っています。

(Elevateに用いている技術は)AIとは呼べない呼んでいない)。 AI(人工知能)という言葉は定義が定かではないが、一般的な印象では、「人間をコンピューターに置き換えること」、少なくとも「人間の仕事をコンピューターにやらせること」を意味する。 Elevateは、マスタリング・エンジニアの頭脳に取って代わろうとするのではなく、頭脳のようなインテリジェンスを使って、私たちの誰もが手作業でやろうとは思わないような仕事をする。

It's not what I would call AI (and I haven't). AI (or artificial intelligence) is not a well defined term, but in the popular imagination it means replacing a person with a computer, or at the least, having a computer do a human's job. Elevate doesn't try to replace a mastering engineer's brain, instead it uses brain-like intelligence to do a job none of us would ever consider doing manually - solving a particular underdetermined problem that comes up when trying to create a loud master that sounds good.

https://www.newfangledaudio.com/post/mastering-with-a-brain

確かにElevateの販売ページを見てもAIや人工知能というフレーズはどこにも出てきませんが、その一方で「機械学習アルゴリズム」というフレーズは何度か見受けられます。
しかしながら、どことは言いませんが、大手のオーディオ機材メディアや代理店などの紹介文には「人工知能アルゴリズム」というフレーズが多用されています。なんだか嫌な予感がします。

ここで簡単に機械学習と人工知能の違いについて触れておきます。
機械学習とは、人工知能の一分野であり、コンピュータが大量のデータからパターンを見つけ出し、それをもとに予測や判断を行うことを可能にする技術です。分かりやすく言えば、「人工知能=目標」であって、「機械学習=それを達成するためのツール」、という感じです。

もしかすると、読者をひきつけるフレーズとして「人工知能」と言っているかもしれませんが、機械学習の方がよっぽど心象がいいですし的確ですよね。
メディア側の誇大広告…ナンデモナイデス。

これらのインターネットの反応もあり、先ほども引用した発売後の2020年の記事では、Elevateが行っているのは、「サンプルごとに最もよい音を定義しようとするモデルを用いた最適化問題の解答プロセスだ」と言っていますし、公式のキャッチコピーは、AIという言葉は用いず、発売当初から変わらず、「MASTERING WITH A BRAIN」のままです。


EQuivocate:耳のための「Critical Bandwidth」

EQのプロセスでもすでに人間の耳に最適化されたバンドの仕組みを採用しています。

公式ブログより

一般的に、人間の耳は特定の周波数範囲の音をまとめて一つの音として知覚する傾向があります。この周波数範囲をクリティカルバンドと呼ぶようです。この範囲にのみに焦点を当てることで、耳で聴き分けるという手間を排除し、問題を特定するプロセスを加速させます。

ダニエル氏は一貫して「聴感に頼った処理を排除する」ということをテーマに掲げていますが、EQのプロセスでもそれが表れていますね。

バンドルされている「EQuivocate」は、これらを別モジュールとして立ち上げることができます。その際に注目したいのがMatchEQの機能です。
先ほどのクリティカルバンドにリファレンスとなる楽曲のバンド設定を参考にできるのはかなりうれしい機能ですよね。

公式がマッチEQについても解説している動画があるので貼っておきます。


ミックスの味方「Saturate」

一般的に、クリッピングとは、オーディオ信号が許容範囲を超過し歪んでしまう現象のことをさします。その扱い方については、未だに議論が続いています。

FenderやMarshallのようなオーディオ機器メーカーの真空管アンプの登場に始まり、強烈なサウンドが特徴的なPro Co RATや、ファズとクリッピングを組み合わせたBig Muff Piのような名機が生まれ、近年ではアナログ回路を忠実に再現したクリッパー(オーバードライブ)のモデリングエフェクターが数多く登場するなど、歴史の長いクリッピング。

マスタリング工程では、信号を代償に得られる強烈な歪み、発生したサチュレーションによる音の厚みと奥行き、そしてアタック感を付与してパンチを持たせてくれるなどの利点をそのままに、音は綺麗に仕上げる必要があります。
それらを、オーバードライブのカーブを改善することで、非クリッピング時からクリッピングするまでの間を滑らかにする「ソフトクリップ」という技術によって改善することができます。

これは最近のマスタリングツールには必ずある機能ですよね。

公式ブログより

一方で、クリッピングには、ダニエル氏も記事で言及していますが、「音を大きくするのに効果的だが、複数の音を混ぜ合わせると、音量の増加よりもピークが大幅に上昇する」という問題が残っています。

そのためにダニエル氏は、「 各トラックのトランジェントをクリップしてそれらを足し合わせ再度クリップする」という手法を推奨しています。
これらのアイデアは、EDMプロデューサーのBaphometrixによる「Clip-To-Zeroプロダクション戦略(The Clip-To-Zero Production Strategy)」から引用されています。

動画リンク貼っておきます。

各トラックやバスにクリッパーを使用してピークを0に近づけることでミックス全体の音量が上がり、マスタリングでの処理を容易にする手法です。

これに関して、ダニエル氏は「クレイジーなアイデアに思えたが、問題をきちんと理解したらとても賢いアイデアだ」と称賛しています。

もとよりElevateに付属しているClipperだけで完結するのではなく、ミックス段階からClipperを挿すことが前提なのでこの点には注意が必要ですね。

Saturateの真骨頂

Saturateのバージョン1.7.0にて「DETAIL PRESERVATION」という機能が追加されました。

公式ページより

公式のブログにてダニエル氏がフーリエ解析の画像を踏まえてどのように波形にアプローチしているかを説明しています。より詳細なことが知りたい方はそちらをご覧ください。

内容をまとめると、「DETAIL PRESERVATIONをオンにすることで、従来のクリッパープラグインでは取り除いてしまうサウンドのディテール感を維持しながらクリッピングしてくれる」というのです。

この画像が一番わかりやすかったので引用しておきます。

公式ブログより

この技術だけでも十分に購入の価値があるのがわかります。
これがまさにSaturateの真骨頂だと感じています。

SaturateにもあるAnti-Aliasingという機能にかんしてはiZotopeのExciterでも同じ機能が存在し、詳しい日本語の解説もあるのでそちらをご覧ください。


それらすべてを詰め込んだElevate

それらEQ、クリッパーとさらに、ダニエル氏の武器でもあるトランジェントの処理とリミッターを含めた4つの機能が同時にひとつのプラグインで完結するのがElevateです。

公式ストアより

しかも、ディザリングやトゥルーピークの処理にも対応しています。
動作自体もさほど重くありません。
先述しました通り、各トラックやバスごとにSaturateで処理を済ませておけばあとは書き出した2mixデータ単品をElevateで仕上げるだけです。

トランジェントの処理にも先ほどのクリティカルバンドが採用されており、すでに考えないといけない帯域に設定されています。

どんな処理をしても音源がほとんど崩れないし印象が変わりにくいという点はどのプラグインにもまねできないなと感じました。
順番通りに操作していたら自然な処理になるように設計されている動線づくりにも感動します。

個人的には、よほどなことがない限りElevateだけでマスタリングは完結するかと思います。

しかもお財布にも優しめです。これまでの内容を見てこられた方にはショッキングかもしれませんが、バンドルで200ドルを切っています。これはかなり良心的ではないでしょうか。

皆さん買ってください。これはアフィリエイトではありません。

ひとりのNewfangledファンとして、ユーザーが一人でも増えたらうれしいです。
ちなみにここ2、3年間ぐらいのPurukichiの楽曲はElevateで仕上げています。マジで。

過去にとらわれないNewfangled Audio

Elevate Mastering Bundleに続き、ダイナミクス・プロセッサー「Invigorate」や、ディレイ・プラグイン「Recirculate」を発売するなど、今後の製品が期待されるNewfangled Audioですが、おそらく来年で10周年を迎えます。

この長い年月の中で生み出されたのはたった8つのソフトウェア製品。

その一つ一つにダニエル氏の明確な意図と根拠があり、アンチテーゼがあり、それを実現する確かな技術があると感じました。まだ見れていない他の製品に関しても同じ熱量で調べてみたいなと感じました。

インタビュー記事にてダニエル氏は、

私たちは過去ではなく、未来に興味があるのです。
-we’re not interested in the past; we’re interested in the future.-
過去の模倣で成功するよりも、画期的なものを作ることに失敗する方がいい。
-I’d rather fail at making something groundbreaking than succeed at emulating the past.-
(一部中略)

https://www.attackmagazine.com/features/interview/dan-gillespie-newfangled-audio/

と述べており、その理念はNewfangled Audioの製品にも色濃く反映されています。

従来の常識にとらわれることなく合理的かつ刺激的なアプローチで問題を解決してくれるElevate。そこには、難解さや根性論のような精神性から逸脱するチャンスがあります。
マスタリングに正解があるとするなら、それはプロセスではなく得られた結果にこそあるべきだと思います。

なぜか、Elevateを使っていると、ふと「これはズル?」と思うことがあります。それは同時に「自分だけの秘密にしたい」とすらも感じさせます。ですが、実際にはズルなどでは全くなく、ただ崩しようがない事実と理論にもとづいてじっくり考えた結果得られた最善策なだけです。

なので自信をもってこれからも使い続けます。

これを読んだあなたもきっと、秘密にしたくなることでしょう。

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参考にした記事やサイト

https://www.linkedin.com/in/dan-gillespie-a10509a

ほかwikiなど

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