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2つの自分を見つめて感じること

3人兄弟の末っ子で、
家庭内の雰囲気を平和に保つことことを心がけて育ったからか、

大人になってからも、
組織やコミュニティの中で、自分の意思よりもその場に合わせた行動をとっているように思う。

その場を俯瞰して、「あーここだとどの人もこんな感じで動いてるから、私も合わせといた方がいいのかな」的な。

だから自分がキャッチした『こんな感じ』のその場ルールを間違って認識してしまうと、修正のフィードバックがくる。

「これはこうしてください」と言われているだけなのに、
「あなたこの場で他の人見ててそんなこともわかんかったんですか?勝手な行動しないでください」のようにその人の(私が思い込んでる)心の声が聞こえるような感覚。

常に人の顔色を気にして生きていると、そりゃ疲れる。
だから私はひとりが落ち着くのかもしれないし、結婚願望のような他人と家族になって同じ屋根の下で過ごすことに興味がないのかもしれない。

(あっ、でもサポートし合える関係性とかいいなーって思うから、別居婚ならありかも)

でも、人目を気にすること自体は、その人やその場を想ってのことでもあるので、これも私の中にある一種の優しさってものだろーとも思う。

ただ、その優しさは、結局他者に向かってるもので自分への愛などそこには含まれていない。
(「これも『私らしさ』のひとつ」だと受け入れてる節はあるけども)

だからこそひとりの時間は、思いっきり自分がその瞬間その瞬間で心が落ち着くころをする。

こうやってnoteにオチのないふわふわしたこと書いたり、
ひたすらスクラッチアート削ったり、
食べたいもの食べながら好きな映画や動画みたり、
友人と終わりのない話をぐだぐだしたり、
お気に入りのエンタメ作品みて爆笑や感動したり、などなど。

コミュニティの中にいるといろんなことに神経を研ぎ澄ませているから、ひとりだととことん自分の直感に、今の感情に正直に物事を遂行する。

なんだか私の『オン・オフ』ってきっとこの、
【他者と居る時の自分 vs ひとり時間の時の自分 】
での感じる観点の違いで切り替わってるっぽくって、
今までも、今現在も、この2つの波が激しく前後してきたから、心が悲鳴を上げる時があったし、最近もちょっとキツいことがある。

この2つの波のバランス、が穏やかになれば、集団の場でのミスコミュニケーションがなくなったり、精神的負荷が軽減されるのかな。

そのためには、自分の中にある変な枠というか、自分へのステレオタイプを外さないといけないなー… 💭


って、最近友人知人からいろいろ話聞いてもらって感じたのでした。

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