見出し画像

操体における「快」のとらえ方(2)

「はてな」に記載したところ、「性的なニュアンス」的な言葉が入っているため、あちら系の広告がバンバン貼られてきたので、こちらに移動します💦
(1)はこちら

操体における快のとらえ方ですが、まず「きもちよさ」や「快」という言葉は、非常に大きなパワーを持っています。

というのは、生命が欲するものだから。

今の世の中で「操体は楽な方に動かして」というよりも「操体って『快』だよね」ということで(また、自分でできるということもあり@これも実は多少の誤解あり)興味を持つ方の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。

私自身、これは今後詳しく文章にしたいと考えていますが、

「ひとりでできる、きもちいい操体法」という言葉がアタマに浮かびました。

これが、多くの方が想像する操体ではないでしょうか。

また、非常に魅力的な言葉でもあり、インパクトもあります。

誤解を怖れずに言えば、言葉のニュアンスとして、性的なものを感じる、または、無意識のうちに感じることもあるのではないでしょうか。

CMなどでも「あ~っ!きもちいい~!」という言葉を最初にもってくると、人間は無意識のうちに性的なニュアンスに反応し「?!」と注目します。

大昔(笑)薬師丸ひろ子主演の「セーラー服と機関銃」で、主人公の女子高校生が、セーラー服姿で機関銃をぶっぱなし、いささか放心した顔で「カ、カイカン・・」と、呟くものがありました。

これなども「カイカン」という言葉(つまり性的なニュアンス)で、視聴者の注意を引いていたわけです。

というわけで世の中の方は

「ひとりでできる、きもちいい操体法」という言葉に惑わされている可能性があるのでは?と思います。

★マーケティング的には、そそるタイトルだとは思いますよ。

★以前、講習の際に、見ているこちらが赤面するような反応をする方がいました。「おーい、公共の場ですよー」みたいな。後で何となくその理由もわかりましたが。

★エクスタシー、というのも元々は宗教的法悦を指します。
以前、渦状波®︎(刺激にならない皮膚への接触。第三分析)を受け、長いこと「エクスタシー状態」になっている女性を見たことがあります。

なお、操体における「快」は刺激性とか、中毒性があるような快ではありません(憶の快※)

「動診をためしてみて、それが快か不快かからだにききわけ、快適感覚がききわけられたら(診断分析。動診)、それを味わうのが(操法。治療にあたる)操体法」です。

操体で「快」を味わうには、第二分析以上ができる操体実践者に操体を受けるのが一番だと思います。

なぜならば「操体法における快への道筋」を、年単位での時間をかけて勉強しているから。

また「第二分析」は、初学者が、本や動画では習得はできません(経験者は語る)。
一番大事な「快」については、実際に体験して勉強する必要があります。

特に実技系は、私淑だと正しいことが伝わらないことがあります。
以前三浦先生の本を読んで勉強したという地方の鍼灸師が会いに来ました。講習に参加してもらったところ、全く違うことをやっていらっしゃり、私も同席していましたが、実技の自己解釈はかなり危険だと思いました。

話を戻しましょう。

実際の操体を受ける前に「快」「きもちよさ」という言葉で、妄想するので、

「操体ってきもちよくて失神しちゃうんですか」という質問になったりするのです(すいません。あまりにもインパクトが強い質問だったので、何度も出します)。

★おそらく多分メイビーパハップス、少なからず同様な妄想いや想像をふくらませている方は少なくないと思います。

★なので「本当の操体の快を味わうなら、自分でやろうと思わないで、よく分かっているプロに聞いてくれ!」と、強く思うのです。

★そして今日も、まだ未体験の操体(と快)に対し、未体験故の妄想と想像を膨らませる方がいたら「早く体験して!!!」と叫びたい今日この頃です。

ちなみに三浦寛先生は「一番辛く苦しいのは「妄想苦(もうぞうく)@仏教用語)」と言っています。
あることをない、ないことをあると妄想し悩み苦しむことです。

妄想頭の中に作り上げた「快」を期待して、やってみたり受けた操体が「第一分析(楽、に問いかけているので当然きもちのよさは聞き分けられません)だったり、「迷走分析」だったりしたら、がっかりの度合いは半端ではないと思います。

これが「操体ってよくわからない」となるんですね。

三浦先生は「憶の快※」と言っていますが、刺激的で刹那的なカイカンではなく、生命の根源につながるような「快」があります。

そしてもっと憶測すると、橋本敬三先生があまり「きもちよさ」という言葉を前面に出さなかったのは「きもちのよさ」という言葉のパワーを知っていたからでは?とか。

現役引退までは、臨床でも「楽な方に動かして」と言っていたのに、引退翌日から「きもちのよさで良くなる」とか「楽と快は違う」と仰ったからには、何かありそうです。

私長いこと「操体における快のとらえ方」について書いていますが、いかんせん皆さん、アタマで理解しようとなさる方が多いんです。

(アタマで考えるから、妄想になるんです)

アタマで理解しようとするなら、まだいいんですが、未だに「楽な方にきもちよく動くのが操体」(本当は、動かしてみて、きもちよかったらそれを味わうのが操体)というあやまった情報を流しているケースがまだまだあります。

っていうか、楽な方がきもちいいってどういうことですか?

「楽」はバランスがとれていてなんともないのに、なんでそれが「一番きもちのいいところ※」(※この言い方は操体法東京研究会独特の言い回しなんですが、使ってもいいんですが、使うなら第二分で使うのが本来の使用法です)になっちゃうんですか?

これらは、言葉だけで見ると、耳心地がいいというか、うっかりしていると、聞き流してしまう可能性があります。

「らくなほうにきもちよく」(だから、楽な方はきもちいいとは限らないんだってば)というのも、耳には心地いいですし、健康体操とかストレッチをやっている「元気で健康な人」向けならいいかもしれません。

ただ、操体では、橋本敬三先生がおっしゃったんですから「楽」「快」「不快」の三つの関係をよく理解する必要があります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?