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ノンフィクション


「私、8月生まれの人って嫌い。」

「えっ…何故?」

「何故って、なんだか主張が強いし、図々しい感じがする。」

「そうじゃない8月生まれの人もいると思うけど…」

「全員じゃないだろうけど。私が今まで会った8月生まれの人は皆そうだった。だから嫌なの。それにテレビの占いでもやってた、8月生まれは自己中だって。そういうふうに生まれたんだよ、あの人たちは。」

「いや、そのテレビの占いおかしくない?いくら何でも大雑把すぎるよ。根拠無いでしょう?」

「私は経験から知ってるの。テレビでやってるってことは、そう感じる人が他にも沢山いるってことでしょ。っていうことは事実なんだよ。」


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例え話終わり。
8月に生まれるかどうかって、本人に決められないこと。
ましてや生まれたあとに「やっぱ12月生まれがいいな。変えます」なんてことも不可能。
自分で決めたことでもなく、自分ではどうにもできないことを理由に誰かを嫌悪する、これは優しい世界の実現を遠ざける行いだと思う。
8月生まれは〇〇、だから嫌い。だなんてのは馬鹿げてる。

お分かりの方もいる、と思いたいが、「8月生まれ」の部分、私は別の言葉を頭に思い浮かべながらこの文章を書いた。国籍や性別。特に日本においては「韓国人」そして「在日コリアン」が当てはまる。


「自分の力ではどうしようもないこと」「それを否定されると自分そのものを否定されたことになる(なりうる)もの」というのは存在していて、それは他人が粗雑に扱ってはいけないものだ。

アイデンティティ、自分が自分として存在すること、その一部を構築しているものはとても繊細だ。
言葉という刃物で他人のその「繊細な部分」を不躾に痛めつけることを、軽く考える人が多過ぎる。
人がどこに痛みを感じるか分かっていて、楽しんでそこをいたぶるのは人間のやることじゃない。
そうして目には見えない部分から流れた見えない血が、この社会にはずっと溢れている。
今、私達は血みどろだ。既に。
その血が皮膚を、目を、鼻を、口を、耳を覆っている。だからこんなにも生きるのが苦しい。
その血によって、この社会に生きる人が溺れそうになっているのに、まだ飽き足らず血を流そうとする。
もうナイフは捨てて、空いた手を目の前の傷口に充てよう。脈を感じよう。同じ今を生きてるんだよ。


念の為、帰化するとかしないとか、そういう問題ではない。

「そう生まれたこと」を否定するのはその人の死を願うのと変わらないよ、という話。

私たちは一緒に生きていくんだ。

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