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「幸福な人生」とは何か?手塚治虫『ガラスの脳』

冬すぎ。
『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』のオープニングクロール風にいうと「Winter!」ってくらい急に冬だ。
秋などほとんどなかった。私の好きな人は暑い夏が好きだったが、私は秋が好きだ。死ぬなら秋がいい。夏より後だしね。なんて。

🧠

『ガラスの脳』という作品がある。
「漫画の神様」手塚治虫先生の短編の一つだ。
元々は『グロテスクへの招待』という作品が好きで買った短編集に収録されていて、今ではどちらも甲乙つけ難い。

物語は、語り部である長沢雄一が62歳で亡くなった妻・長沢由美の生涯を振り返り手記を書くところから始まる。

舞台は昭和29年。由美の生まれる予定日の4,5日前、由美の母親は電車の脱線事故に巻き込まれ昏睡状態になり、最期に由美を出産し亡くなってしまう。
産まれた由美は、命に別状はないものの産まれてからずっと昏睡状態であり、10年以一度も目を覚まさずにいた。

雄一が由美に初めて出会ったのはそんな時だった。風邪で入院していた雄一は、同じ病院にいる由美の話を聞き童話「眠り姫」のようにキスをして起こそうとする。
子供らしい思いつきかのように思われたそれを、雄一はその後何年間も続ける。
冷静に考えると「同年代の寝たきりで入院している全くの他人の女性に毎週のようにキスしにくる少年」は結構やばい気がするが、とにかくそんな生活を続けていた17才のある日、由美は目覚めた。

目覚めた当初、由美は体だけ17才の赤ん坊そのものであった。病院の院長の計らいで由美の世話を任された雄一は、見た目と振る舞いとのギャップに翻弄されながらも、由美の眠っていた17年を取り戻すかのようなスピードで知識を吸収していく様子に驚く。

目覚めてから3日目には、由美は知能や立ち振る舞いが普通の17才と変わらないレベルになっていた。そして雄一は由美から「自分に与えられた時間は5日しかない」と伝えられる。

「ねえ 人間って長く生きることが幸福じゃないわね」
「そりゃそうだろうね 短くたって満足な人生だってあるだろ」
「たった五日でも?」
「ああ 五日でもいいさ」

手塚治虫『ガラスの脳』

動揺しながらも出鱈目だと一蹴する雄一に対し、由美は誰かを愛したいと、院長が好きだと告白する。
この時初めて自分の中の由美への愛を自覚した雄一はショックを受けつつも、由美の幸せのため院長に会いに行き、由美の想いを打ち明けた。

しかし院長は「愛情をごっちゃにしている」とこれを拒絶。雄一から伝えられた由美は泣きながらどこかに走り去ってしまう。
追いかけようとする雄一は一人の看護師に呼び止められ、衝撃の事実を知らされる。なんと院長は、由美が目覚めない間夜な夜な一人で病室に行き、「いたずら」をしていたというのだ。
激昂した雄一は院長を殴り飛ばし由美を追う。由美はショックのあまり線路で自殺を試みていた。間一髪で間に合い由美を助け出した雄一は、由美に幸せにする事を誓い、結婚を申し込む。

由美が目覚めてから5日目。雄一は両親の反対を押し切り、17才にして由美と結婚式を挙げる。
深夜まで愛し合う二人。しかし、最期の時は刻一刻と迫っていた。
由美は雄一に別れを告げて、長い眠りについた。

雄一の努力も虚しく、それから由美は一度も目覚めることなく62才で息を引き取った。
死後、雄一の希望で解剖された由美の頭蓋の中には、ガラスのように透明な、美しい脳があった。

泥のようによごれたこの世で 六十年を苦しむよりは
由美の五日間の人生は 幸福だったかもしれないのだ

手塚治虫『ガラスの脳』

🧠

私は「すべての漫画の原点はすでに手塚治虫が描いている」と思っているタイプの過激派オタクで、特に「原初の愛」みたいなものについては本当にすべて描かれていると思っている。
この作品も、「5日間で一生分の愛情と喜びを得た由美」と「5日間の思い出を胸に50年以上彼女を想い通した雄一」の二人の愛が描かれている。

愛する人との5日間の思い出を胸にその後の45年を生きた雄一の人生は決して幸せとは言えないだろう。しかし、「人を愛し、その人に愛された」という思い出は、共に過ごすうちに薄れていくことの多い現実と違い、いつまでも美しいままだ。
それに、「いつかまた目覚めるかもしれない」と思い寄り添い続けた彼の人生は、希望にあふれたものだったとも言える。(それだけが生きる希望だった、とも言えるが)

そして、自分を本当に愛している人に抱かれながら5日間の人生を終えた由美の人生もまた、真に幸福なものとは言えないだろう。人生があと一ヶ月あったなら、変わらぬ愛情で幸せな日々を送れただろう。あと一年あったなら、新しい出会いもあったかもしれない。あと十年あったなら、いろんな楽しみが見つけられただろう。
人の一生の幸福や喜びは5日に凝縮できはしない。それに幸せな時間は長ければ長いほどいいのだ。

長く生きるのが幸福ではない。
しかし、幸福な時間は長い方がいい。
生きていると辛い事、苦しい事、悲しい事、大変な事がたくさんあるが、少しでも長い時間幸せでいられるように、少しでも長い時間生きる。

生きていたら、好きな人とまた会えるかもしれないし、好きなアニメの新作が放送するかもしれないし、好きなアーティストの新曲が出るかもしれないし、好きなゲームの新作が出るかもしれない。

そんな幸せを夢見て、今日も泥のようなこの世で生きていくのである。

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