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撮らされた夕日

友人の結婚披露宴の受付までは、まだ時間があった。
少し、早く着きすぎたな。
仕方なく、辺りをぶらぶらと散策する。
昔は感じなかった潮の匂いが、この町を離れていた時間を強く感じさせた。

港のすぐそばには、この辺りでは割と大きな公園があり、駐車場には観光バスが一台停まっていた。
バスツアーの休憩時間なのだろう。観光客が2、3人、船や灯台を模した木造のモニュメントに登って、水平線にスマートフォンのカメラを向けていた。
そういえば、ここから見える夕日はこの町の観光名所の一つだった。飽きるほど見たはずのその光景を、やけに新鮮な気持ちでしばらく見つめる。

なんとなしに、観光客に紛れて灯台のモニュメントに登ってみる。ここがこの公園で最も高い場所だ。陽が沈む様子が一番よく見えると考えたのだろう。
しかし、実際にここから夕日を撮影しようとカメラを構えてみると、高さが仇となり目の前の街灯が邪魔になる。
今度は隣の船のモニュメントに登ってみる。マストの上まで登ると、灯台よりは低いが障害物がなく、夕日が綺麗に撮れるのだ。
今日は、年中天気の悪いこの町にしてはよく晴れていて、夕日も心なしか美しく見えた。
これでは本当に観光客みたいだ。
そう思いながら、スマートフォンのカメラのシャッターを押す。

ふと、子供の頃の記憶が蘇ってくる。
記憶に誘われるまま、私は港に向かって歩き出した。

だんだん沈んでいく夕日に照らされながら、公園と港の間の道を進むと、美術館が見えてくる。
この公園の端には美術館があった。私はこの美術館が好きだった。そして、子供の頃の私は、この美術館の前で、水平線に沈む真っ赤な夕日を見たのだった。

美術館の前から見た光景は、存外記憶の中の光景と違っていた。あんな所に建物はなかったように思うし、水平線はもっと綺麗に見えたように思う。何より、今日の夕日はさっぱり赤くなかった。
ー 別に、期待はしてなかったけどね。
隣で小さな私が、表情に出さずに残念がっているような、不思議な感覚だった。

そもそもあの夕日を、私はなぜこれほど鮮明に憶えているのだろうか。移動手段が自転車しかない小さな私にとって、この美術館は一人で来るには少し遠すぎるのだ。
いつもは近所の公園で野球ごっこをしている友達が、めずらしく付き合ってくれた帰りに見た夕日だっただろうか。
男手一つで育ててくれた父親が、休日に連れてきてくれた時に見た夕日だっただろうか。
中学生の頃初めてできた、大事に出来ずに別れてしまった彼女とのデートで見た夕日だっただろうか。
あるいはもっと小さい頃、家族3人で一緒に見た夕日だっただろうか。
この町の思い出の断片と繋ぎ合わせようとしても、思い出せるのはあの日の夕日の大きさと赤さだけだった。

太陽はすでに、その体の半分以上を水平線に沈めていた。
こうして眺めていると、今日の夕日もなかなか悪くないように思えてくる。
今日、一人で見たこの夕日も、いつか思い出すのだろう。
仲違いから今日の結婚式に呼ばれなかった友達や、自分の未熟さから手放してしまった大切な人に。
この夕日を見せたかったという、この気持ちとともに。

そろそろ会場に向かおうか。
美術館の入り口の前のよくわからないオブジェを撫でてから、来た道を戻る。

太陽はもう頭だけになり、空に数羽の海鳥の影を映していた。

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