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軍が依頼した住友金属の金属プロペラ

実家に残されたプロペラは1922(大正11)年に製造された日本楽器製造の木製プロペラですが、『プロペラと日本楽器製造株式会社(ヤマハ・ヤマハ発動機の前身)』の記事で少し触れたように、軍では1931年から金属プロペラの製造を開始し、1937年頃からは戦時色が強まることで金属プロペラのウエイトが高くなっていきます。
リンク先の『やまももの木は知っている』にあるように、軍は金属プロペラの製造を日本楽器製造だけでなく「住友金属」にも依頼しています。

今回は住友金属と金属プロペラの関係の情報を集めました。なかなか情報がヒットせず、やっと見つけたサイトがこちらです。

①『住友金属工業六十年小史』 住友金属工業社史編纂委員会 
 上記の資料によると、昭和10年に住友伸銅鋼管(株)と(株)住友製鋼所が合併して資本金4000万円をもって住友金属工業(株)が設立。各工場は伸銅所(旧伸銅鋼管桜島工場)、鋼管製作所(旧伸銅鋼管尼崎工場)及び製鋼所(旧製鋼所)と称することになった。とあります。
 p.118に当時「金属プロペラは一部日本楽器製造会社とともにわが国生産の大部分を占めていた。」とあります。
 巻末の年表によると、
昭和12年11月10日プロペラ製造所の開設。金属プロペラ増産のため伸銅所からプロペラ工場を分離してプロペラ製造所を開設。
昭和18年3月2日プロペラ製造所の機構改正。従来、桜島にあったプロペラ製造所(本所)を尼崎市に移転し、神崎支所をプロペラ製造所神崎製作所、従来の桜島工場をプロペラ製造所桜島支所とそれぞれ改称。
昭和20年6月15日プロペラ製造所空襲。被爆のため大半壊滅す。
昭和28年9月2日プロペラ部の新設。プロペラ部を新設、プロペラ等航空機用機器の製造及び修理を再開す。 とあります。
 又、p154に零戦のプロペラは当社の定回転プロペラが採用されていたとあります。
 以上のことから、お問合せの会社は住友金属工業(株)であると思われます。
 p.141には、工場新設についての記載があり、“14年4月には名古屋工場、次いで5月に神崎工場の建設に着手した。 …中略… 神崎工場は可変節プロペラ生産設備をさらに拡張するため尼崎市北難波にプロペラ専門工場(敷地14万坪)を建設しようとしたものである。桜島のプロペラ製造所は将来新工場に移転集中する計画であった”とあります。

②『帝国銀行会社要録 第26版』 帝国興信所 (大阪 p.120)には
住友金属工業株式会社
大阪市此花区島屋町37
鋼管製造所:尼崎市東向島西之町28
伸銅所:此花区島屋56
③『帝国銀行会社要録 第43版』 帝国興信所/編 1962 (大阪 p.246)には
工場:尼崎市東向島西之町1
此花区島屋町249
となっています。
お問合せの工場は住友金属工業株式会社 尼崎の工場のことと思われます。

従業員数ですが①のp.137に
 「…十二年六月既に在籍従業員数は一万人を越えた」とありますが、プロペラ専門工場の従業員数は見つけることができませんでした。
すでにお調べのように、住友精密工業株式会社のホームページ( http://www.spp.co.jp/index2.html )をみますと
 “昭和36年(1961)住友金属工業(株)の航空機器部門を継承し、住友精密工業(株)として発足”となっています。
また、同ページの「会社沿革」( http://www.spp.co.jp/annai/gaiyou.html )にも
昭和12年(1937)プロペラ製造所を設置
  18年(1943)同製造所を現在地(尼崎)に移転
  28年(1953)プロペラ部を設置              となっています。
なお、住友精密工業(株)の本社工場は、尼崎市扶桑町1-10となっています

金属プロペラは一部日本楽器製造会社とともにわが国生産の大部分を占めていたと書かれているように、『やまももの木は知っている』に書かれていた金属プロペラの依頼先の内容と一致することと、そこに書かれていた「住友金属」とは「住友金属工業」のことだと伺えます。

また、住友金属工業は昭和12年(1937年)にプロペラ製造所を設置とあり、1937年頃からは戦時色が濃厚となると共に金属プロペラのウエイトが高くなっていくこととも一致します。

1945(昭和20)年には空襲で住友金属工業のプロペラ製造所の大半が壊滅するも8年後には再度プロペラ部を新設し、1961(昭和36)年には住友精密工業が継承とのことで、長い間プロペラ製造に関わっていたことが分かります。引用したページに書かれている住友精密工業株式会社のホームページのリンクは切れてしまっていますが、貴重な情報が残されていました。

住友金属工業株式会社(すみともきんぞくこうぎょう、英: Sumitomo Metal Industries, Ltd.、略称:住友金属、住金)は、かつて存在した日本の大手鉄鋼メーカー(高炉メーカー)。関西経済界の重鎮(関西財界御三家)であり、住友グループの要として三井住友銀行、住友化学と共に「住友グループ御三家」と称された。
改革
1897年(明治30年)4月1日 - 住友伸銅場が創業。
1901年(明治34年) - 住友鋳鋼場が創業。支配人:山崎久太郎。
1913年(大正2年)6月 - 住友伸銅場が住友伸銅所に改称。
1921年(大正10年)2月 - 住友合資会社伸銅所が発足。
1926年(大正15年)7月 - 住友合資会社伸銅所が住友伸銅鋼管株式会社に改組。
1935年(昭和10年)9月 - 住友伸銅鋼管と住友製鋼所(旧・住友鋳鋼場)が合併し、住友金属工業株式会社として発足。
1949年(昭和24年)7月1日 - 扶桑金属工業を解散し、新たに新扶桑金属工業株式会社を設立。

住友金属とは住友金属工業のことだと分かったので、住友金属工業のWikipediaを確認しました。Wikipediaによると住友金属工業の設立は1949年ですが、1935(昭和10)年に住友金属工業として発足とあるように、軍が金属プロペラを依頼し始めた時期とも合致しています。
軍の金属プロペラ製造の依頼先の「住友金属」とは、「住友金属工業」で間違いなさそうです。

ここで、『やまももの木は知っている』より抜粋します。

日本楽器が陸軍のプロペラを製造しているのに対し、海軍の分は住友金属が担当しており、住友金属はアメリカのハミルトンスタンダード社から、ハミルトン式可変節プロペラの製造権を購入し、昭和12年(1937年)から試作していたようである。日本楽器もこのハミルトン式可変節プロペラ製造の分権を得て、陸軍用として製造することになり、昭和13年にはその準備が始まった。本社工場もコンクリート建築の3階、4階が相ついで建てられ、中通りの東側には新工場と称せられた4,000坪の工場が二期に分れて完成している。当時のプロペラの生産は、文献によれば日本全体で昭和12年(1937年)1,584本、昭和13年1,846本、昭和14年は4,033本でその内訳は住友金属1,466本に対し日本楽器は2,567本で、全体の約60%を製造していたことになる。また、プロペラの種類の内訳は、昭和14年の軍の要求表によれば次の通りである。

https://global.yamaha-motor.com/jp/design_technology/technology/yamamomo/001/#sec2

ここに書かれていることは、陸軍のプロペラは日本楽器海軍の分は住友金属ということです。そして軍の要求表とは、陸軍と海軍どちらなのか合わせたものなのかはっきりしません。
陸軍と住友金属の関係を調べてもこれ以上情報は出てこず、陸軍が直接住友金属にプロペラを依頼していたかは分かりませんでした。ただ、海軍は住友金属工業にプロペラの製造を依頼していたことになります。

ちなみに、最初の引用先に書かれていた住友金属発足前の住友伸銅鋼管の工場は伸銅鋼管桜島工場。発足後はここが住友金属工業製鋼所となりましたが、この敷地の一部と日立造船桜島工場跡地は、現在のユニバーサル・スタジオ・ジャパンです。
なぜこの跡地に人が集まる娯楽施設を作ったのかは、また別のことが関係していると考えています。

時系列でまとめると

1931(昭和6)年 軍で金属プロペラ製造開始
1935(昭和10)年 住友伸銅鋼管と住友製鋼所が合併して住友金属工業を設立
1937(昭和12)年 住友金属工業はプロペラ製造所の開設
1937(昭和12)年 日本の飛行機は金属プロペラ製造のウエイトが高くなる

軍が依頼したプロペラの製造先

・木製プロペラ→日本楽器製造(現在のヤマハ発動機、ヤマハ)
・金属プロペラ→日本楽器製造、住友金属工業(現在は住友精密工業が継承)

陸軍:主に日本楽器製造に依頼
海軍:主に住友金属工業に依頼


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