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プロペラと日本楽器製造株式会社(ヤマハ・ヤマハ発動機の前身)

プロペラの刻印はヤマハ発動機?」の記事で書いた通り、実家に残されたプロペラの刻印はヤマハ発動機なのかヤマハなのかはまだ確認できていません。

ヤマハ株式会社の公式HPから歴史を確認したところ、楽器のことが主でありプロペラの情報はありませんでした。
そこで、ヤマハ発動機の歴史と改革について調べ続けました。ヤマハ発動機の創立は1955年と新しめではありますが、ヤマハ発動機(ヤマハ)の前身である「日本楽器製造株式会社」では、一時期楽器よりプロペラ作りが盛んに行われていた記述を見つけました。プロペラの木の材質や作り方の一部まで記載されており、とても貴重な情報です。

端的に説明すると‥

 ・日本楽器製造株式会社では木製プロペラが盛んに作られていた
 ・1936年頃までは航空機プロペラのほとんどが木製プロペラ、翼もボスも一体の固定ピッチ型
 ・プロペラの木の材質はマホガニー、くるみ
 ・1937年戦時色が濃厚になると共に金属プロペラ製造のウエイトが高くなる
 ・1938年(昭和13年)には日本楽器内のプロペラ関係工場は陸軍の管理工場となる

曽祖父の弟さんの情報

 ・明治期の陸軍で飛行機担当
 ・1911年徳川大尉の初飛行より先に飛んだ
 ・実家に残された木製プロペラはヤマハ発動機(もしくはヤマハ)製
 ・少なくとも3本のプロペラを地元に届けた

下記のサイトより引用させていただき、詳しく見ていきます。
引用元の舞台は静岡県にある当時の日本楽器浜名工場、すなわち現在の「ヤマハ発動機 浜北工場」の周辺のお話です。

【楽器とプロペラ】
なんといってもヤマハ発動機の創立はプロペラの起源に始まることは皆さんご存じの通りであるが、話はさかのぼって楽器とプロペラの関係から始めてみたい。
昭和10年(1935年)2月、即ち昭和初期の不況にして就職難時代に、日本楽器の門を始めてくぐった私の眼に映ったものは、日本楽器は楽器だけでなくプロペラも製造しているということであって、意外な事実にびっくりした。
航空機プロペラといっても、ほとんど木製プロペラであって、当然翼もボスも一体の固定ピッチ型である。
木の材質はマホガニー、くるみの良質材を厳選したものを人工乾燥し、20ミリ厚に精密に仕上げたものを膠(にかわ)またはカゼイン膠といった接着剤で、加圧積層してしばらく放置する。
【木製プロペラの加工工程】
それを複雑な断面形状に仕上げる。そして発動機の軸にとりつけるボス部分を中心として、バランスよくかつ対称的に仕上げる。それこそ木工職人さんの腕のみせどころでもあった。
最後にうるしなどで塗装仕上げして完成するものであるが、以上の工程はピアノを製造するための精密なる木工加工技術が最も適していたわけである。
従って日本楽器が木製プロペラを作っていたことは納得ができる。
【金属プロペラ】
一たんプロペラの製造技術が確立すると、必然的に軍の要請も強くなり、満州事変の始まった昭和6年(1931年)には、金属プロペラの製造が開始されたのである。
満州国が建国され、五・一五事件のあった昭和七年の翌年には、木製プロペラの表面を真鍮の金網で包み、セルロイド溶液でそのすきまを埋めつくしたあと、表面を平滑に仕上げる方法が始まった。
日本楽器が開発したこの被包式木製プロペラは、軽くて強度の高いものであった。
昭和11年(1936年)2月26日、この日は浜松地方も白一色の銀世界となったが、東京では有名な二・二六事件が起きた。翌12年7月、日華事件が発生、戦時色が濃厚になると共に、金属プロペラ製造のウエイトは高くなってきた。
昭和13年には日本楽器内のプロペラ関係工場は陸軍の管理工場となって、楽器関係の従業員も日増しにプロペラ関係の仕事の方へ増強された。プロペラ関係の仕事をしている人はプロペラの入ったバッヂをつけておリ、バッヂのないものは工場への出入りは絶対にできなかった。

ご先祖様は陸軍の飛行機担当で飛行機を作っていた方です。「昭和13年(1938年)には日本楽器内のプロペラ関係工場は陸軍の管理工場」と書かれているので、おそらく当時はこちらで仕事をしていた可能性は高いです。
ひとつ前の神社の記事では中島飛行機製のプロペラの情報が多かったですが、日本楽器のプロペラ工場が軍の管理下であり、時代的にも合うので、実家に残されたプロペラが「ヤマハ発動機(orヤマハ or日本楽器)製」であることも納得できる流れです。ご先祖様は少なくとも3本の木製プロペラを地元に届けてくれていることも、仕事場がプロペラ関係工場でプロペラがたくさんあったことの裏付けにもなります。

明治期に飛行機担当となった当初は飛行機作りが主な仕事であり、1911年の徳川大尉の初飛行よりも先に飛んだと自慢するくらいの方なので、飛行機作りや飛行機の研究が本職であったと思われます。父から「飛行機の整備士だった」とも聞いているので、時代が進み戦時色が強くなり、軍からの指示で1938年前後からは日本楽器のプロペラ関係工場がある浜松の地で、飛行機の整備士として働いていたと推測できます。

【ハミルトン式可変節プロペラ】
日本楽器が陸軍のプロペラを製造しているのに対し、海軍の分は住友金属が担当しており、住友金属はアメリカのハミルトンスタンダード社から、ハミルトン式可変節プロペラの製造権を購入し、昭和12年(1937年)から試作していたようである。
日本楽器もこのハミルトン式可変節プロペラ製造の分権を得て、陸軍用として製造することになり、昭和13年にはその準備が始まった。
本社工場もコンクリート建築の3階、4階が相ついで建てられ、中通りの東側には新工場と称せられた4,000坪の工場が二期に分れて完成している。
一方加工用の機械は、国内の主要工作機メーカーより続々と入庫し、アメリカからもシンシナチー、ミルウオーキー、ヒールド、ノートンと云った銘柄の優秀機械も入ってきて、大軍需工場の様相を呈するに至った。
技術陣はハミルトン杜から送られた製品図、治工具図面を日本版に書き改めていくことが仕事となった。
アメリカから送られてきた図面の寸法はインチ、大きな図面に小物部品まで全部書き入れる型であるから、これをミリに換算したり翻訳したり一品一葉の図面にしたり、発註手配といった計画関係を担当したが、今のように機械技術屋が揃っている訳ではないので、幹部も頭を痛められたことと思う。
【プロペラの生産】
当時のプロペラの生産は、文献によれば日本全体で昭和12年(1937年)1,584本、昭和13年1,846本、昭和14年は4,033本でその内訳は住友金属1,466本に対し日本楽器は2,567本で、全体の約60%を製造していたことになる。
また、プロペラの種類の内訳は、昭和14年の軍の要求表(※日本楽器のみ下記抜粋)によれば次の通りである。
表)昭和14年3月→木製30 金属200 可変75
  昭和14年9月→木製30 金属220 可変130
  プロペラ生産能力 要求表(金属固定及び可変節プロペラ中 約2/3は3翅)
その後、プロペラの生産能力要求は更に強くなり、昭和14年上半期の1カ月平均生産実績320本を、昭和16年9月には約3倍に増強しようとしたものである。
昭和17年の生産予定は全国で12,522本となっているが、戦争末期の数量ははっきりしない。しかし、昭和19年には月に1,300本前後になったと思われる。
キ/48を主として、キ/57キ/51といった軽爆機や輸送機に使われている三翼のハミルトン式プロペラが大部分だった。
この頃になると金属の固定節プロペラはほとんど作られていない。
これに対応するために工場は昼夜交代、学徒動員、勤労奉仕、徴用などの人であふれ、相つぐ空襲下"一機でも多く航空機を前線へ"といった生産がつづけられていたが、そのときの従業員総数は一万名にも及んだ。

戦時下ではフル稼働でプロペラの生産が行われた様子が伺えますが、この時代だと木製プロペラより金属固定プロペラが主流になっていることが分かります。なお、引用元の軍の要求表には、日本楽器と住友金属のそれぞれの数値が記載されています。

プロペラの刻印と、陸軍の飛行機担当という情報が納得できる当時の流れを得ることができました。
当時の日本楽器はプロペラを改良してモーターの開発・研究もしており、そこからオートバイへと移っていきます。
ヤマハといえばピアノなどの楽器や音響の技術もあります。「音」に関しては飛ぶことに関係があるのではないかと、情報を集め考察を重ねているところです。

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