読みもの版【わたしの起業ものがたり】第1回 青木和美(ベーカリー&カフェ オーナー)~やればできる!覚悟を決めればピンチも楽しい~
パンの店ブティックシエール
パンとカフェ シエールNST店
オーナー 青木和美
~やればできる!覚悟を決めればピンチも楽しい~
※この記事は、2023年6月17日(土)実施のイベント、
「わたしの起業ものがたり」第1回のお話を参考にまとめたものです。
あなたは今日、パンを食べましたか?
手にしたのは、どのような形で、どんな風味?
わたしたちに身近な食べ物、パン。
それを手掛けたのがどういう人か、知っていますか?
毎日焼きたてのおいしさを届けてくれる、街のパン屋さん。
その人が今の立場になるまでには、
さまざまなストーリーがありました。
【わたしの起業ものがたり】第1回の今回は、ベーカリーとカフェ2店舗を経営する、青木和美さんの「ものがたり」です。
青木和美(あおきかずみ)
略歴:
1971年 新潟県村上市出身 新潟市在住
新潟大学工学部情報工学科卒業 新潟大学大学院工学研究科修了 工学修士
公益財団法人環日本海経済研究所(ERINA) 調査研究部研究員(中国・物流担当)を経て
2003年 パンの店ブティックシエール オープン
2009年 パンとカフェ シエールNST店 オープン
1児の母(中学3年生の息子)
1. 起業に至るまで
・就職先は「経済研究所」 工学修士が、なぜ?
青木和美さん(以下、和美さん)は新潟県村上市で生まれ、高校卒業後は新潟大学工学部へ進学。そのまま大学院まで学びの機会を延ばしました。
学生時代は自動翻訳機をはじめとする人工知能の開発やデータ解析の研究に取り組んでいたとのこと。なぜ就職先に分野違いの「公益財団法人環日本海経済研究所(ERINA)」を選んだのでしょうか。
和美さんが学部生のころ、日本はいわゆる「バブル経済」真っ只中。周りからは「工学部なら、1人平均40社から求人が来るよ」と言われ、その恩恵に預かれるものと考えていたといいます。
しかし、就職活動が始まると世間の状況は大きく様変わり。「バブル崩壊」とともに、新卒採用の道は狭められ、「工学部でも、1人1社が関の山」という状況に。
なんとか就職にこぎつけた同期の友人もいる中、和美さんは、まだ学びを深めたい気持ちもあり、大学院へと歩を進めました。そして大学院修了間際、ERINAの求人を目にし、「経済分析ソフトの開発を手掛けたい」との思いで入社に至ったのです。
ところが時代はITに関して日進月歩の様相を見せ始めており、和美さん入社時、経済分析ソフトはすでに使用されていたとのこと。
そこで命じられた担当は「調査研究部研究員」。20世紀が終わろうとしていた1990年代後半は、環日本海、とりわけ中国の経済発展が耳目を集めている頃でした。和美さんは、中国・物流担当に着任します。
-中国担当になったのは、ご自身の希望だったのですか?
和美さん:いえ、希望を出したわけではなく、そのような辞令がきたので素直に受け取りました(笑) 。中国担当とはいえ、中国語を学んだことはなかったので、入社してから勉強しました。
入社後は環日本海諸国を歴訪。中国をはじめロシア、韓国、そして北朝鮮へも調査のため渡航。そこで体験した出来事とは…。
・研究員としての渡航先、日本では考えられない、あんなことやこんなこと
仕事のため渡航した先で、和美さんは、日本にいては考えられないような出来事に多数遭遇したといいます。とある国ではエレベーターに閉じ込められ、とある国ではトイレのない平原で用を足すため、身を隠す傘を持ち歩きました。
-普段、なかなか行けないようなところを数々訪問されたのですね。聞くのは少し戸惑うのですが、怖い思いをしたこともありますか?差し支えなければ、伺いたいのですが…。
和美さん:怖い思い…といえば、某国で、鉄道の様子を取材しているときでした。わたしはビデオ担当で、行き交う列車を撮影していたのですが、そのとき、どこからともなく「ピューッ!」と、口笛の音が響いたのです。その音の出どころが気になり、顔を上げて遠くを見たら、向こうの丘の上から聞こえてきたことが分かりました。程なくして、軍隊がこう、こちらに向かって走ってきたんです。
-軍隊ですか?どういうことですか?
和美さん:「あの女が何か撮ってたぞ」と、あらぬ疑惑がかけられたようです。こちらは政府の仕事でおもむき、撮影も依頼に応じて行っていたのですが…。そして銃口をこちらに向けられました。
-絶体絶命の状況ですね!それは恐怖以外の何物でもない…。
和美さん:はい、その時はさすがに「人生終わった。お父さん、お母さん、ごめんなさい」と思いましたね…。そして、もしかしたらしばらく拘束されるかも、そうなったら、日本にいつ帰れるのか分からない、という絶望感がチーム全体に漂いました。
この一件は、和美さんの上司と現地の軍隊上官や軍幹部が話し合いをして、その場で解決したとのこと。若い女性が仕事に従事しているところで、このような危険な目に遭うとは、いくら海外での出来事といえども、かなりの心の傷になりそうです。しかし和美さんは「これも貴重な経験」と笑顔で振り返ります。
和美さんの数々の言葉や行動から、確固とした決断力を感じることがよくあります。それには、こうした危険な経験を通して培った判断力やとっさの機転の利かせ方などが、深く影響しているのかもしれません。
・異国にて「経済」と「幸せ」について考える
海外へ足を運んでの調査、帰国後はデータの分析と、経済研究所の研究員として仕事に明け暮れていた和美さん。各国のさまざまな地域を訪れ、経済状況と町の様子を見ているうち、心境に変化が訪れたといいます。
「経済発展が、現地の人の幸せにつながっているのだろうか」という疑問が、心に上ってくるようになりました。
和美さん:「この地域の経済発展のお手伝いをしてあげよう」ということで取り組んだケースがあります。ですが現場の様子を見て、こちら側からのアプローチによる事業は、果たして現地の人にとって喜んでもらえることなのか?と疑問に思うようになったのです。「助けてくれと言われていないのに、こんなこと(都市開発)をして、いいのか?本当に役に立っているのか?」って。
和美さんは「お仕着せの幸せ」に違和感を覚え、現地の住民に心から喜んでもらえる仕事、実際そこに住むひとりひとりの役に立つ仕事がしたい、と思うようになっていきます。
-その心境の変化が、パン屋さんを始めるきっかけになったのですね。
和美さん:はい。とにかく、「身近なところで人様の役に立ちたい」と思ったんです。そもそもわたしの出身はのどかな地方で、大きな設備がなくても、人々は幸せに暮らしていることを小さい頃から知っていました。では、そういう人たちのために、工学部で学んだことを活かして便利な道具を作ってみるとか、何かおいしいものを作って提供してみるとか…そのほうがいいんじゃないかなあ、と思い始めたのです。じゃあ、お店はどうかと。お店なら、心を込めて何かものを作る、売る。それをお客さんが買う。喜んでくれる様子が、目の前で分かるじゃないですか。
大規模な経済発展より、身近な「ありがとう」が欲しい!-この気持ちを原動力に、和美さんは、経営者の道へ一歩を踏み出すことになります。
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