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空気遠近法

 大して高くも無いオフィスの窓から見る町の姿は空気遠近法で白く染まっていた。近いものは鮮やかに見えて、遠くにあるものは空気の乱反射だかで白く淡く見える。遥か彼方は白い風景の中に溶け込んでしまう。雨の日は特にそれがひどい。人の記憶も空気遠近法が効いているとみえて、羽振りの良かったあの頃の記憶は白くぼやけ、手に取った年金の督促状は鮮やかな色をしていた。
「個人事業主は給与取りとは違ってね、毎月決まった金が入る訳じゃないんだ」
 オフィスの電話から年金事務所へ。情けない話だが金ならないと断りの電話を入れる。
「でも真郎《まろう》さん、年収自体はあるでしょう? 払って頂かないと」
「税務署が情報屋への支払いを経費と認めてくれたら良いんだがね、レシートを出せば良いんだろうか?」
「それを年金事務所に聞かないでください。それは税務署へ」
「税務署に行くぐらいなら警察に出頭するさ。その方がよっぽどいい」
「冗談はやめて下さい。いつになったらお支払い頂けますか?」
「探偵だからね、消えた年金記録でも探し当てようか?」
「見つかればいいんですけど。無いものは無いんです。次は差し押さえ考えます。では」
 電話が不本意ながら終わると、オフィスの呼び鈴が鳴った。いい音だ、録音してたまに再生したい。
 ドアを開けると荒い息をするご婦人が。売り物の笑顔でお迎えする。私のオフィスはエレベーター無しの雑居ビルの5階にある。エクササイズにはもってこいだし、景色もいい。そして何より冷やかしやセールスが来ない。お客は階段で5階まで上がる程度に切羽詰まった人ばかり。呼び鈴の音を再生させたくなる気持ちが分かるかい?
「探偵事務所、ですよね?」
「ええそうです。お客様が来た時は特に。まずはお座り下さい。基本料金のご説明までは無料です」
 空気遠近法とは無縁な依頼主は、バラ色のスカーフを巻いていた。久しぶりに白くボケていない一万円札が拝めそうだ。

「弟さん、ですか」
「10年前に出て行きまして、音信不通なんです。先月父が亡くなりまして、遺産相続で彼と話をしないと……」
「それはお悔やみ申し上げます。そして大変心苦しいのですが、2〜3質問を。
 まず第一に警察に行かないのは何故ですか? あちらは無料ですよ。情報を集める上でも彼らは権力があり、強力です。
 第二に、なぜ今なんですか? つまりお父様がお亡くなりにならなければ、貴方は彼を探しもしなかったと聞こえるのですが。
 第三に、なぜ私に?」
 ご婦人は俯いて聞いていた。心なしか震えて見える。
「その通りです。弟は家族と不仲で、ほぼ勘当の身です。遺産相続でも無ければ探さなかったでしょう。
 しかし連絡の取りようが無いのです。あなたを選んだのには特に理由はありませんわ。近くで看板を見たもので」
「警察に行かない理由がありませんな。私たちは1日いくらでお金を取ります。なかなか何日も掛かる捜査は依頼しにくいものです。そう考えると私はどうしても『警察には行けない』理由を考えます」
「何をおっしゃりたいの?」
「山の中で無口になった弟さんを掘り出して、警察で長時間調書を取られるのは堪えるな……って話です。弟さん、探す気が無かったのではなく、《《探されると困る》》って事だったんじゃ無いですか?」
「え?」
「例えば、家庭裁判所で失踪宣告してもらう事もできる。本当に行方が分からずどうしようも無いなら、そちらの手続きで進めても構わない筈なんです。ただ、警察には届けましたかと聞かれるでしょうね。貴方はお父様が亡くなる前にそれをするべきだった……まぁ、普通はこんな事知らないでしょうからそれはいい。
 今の貴方の話ですと、どうしても警察に行きたくない何かがある様な、そんな意図が見えるんです。どうしてなのかお話頂けませんか?
 一応、コンプライアンスというものがこんな探偵事務所にもありまして、法に反することや抵触することは出来んのです」
「……分かりました、警察に行きます」
 急に、バラ色のスカーフが白く見えて来た。さようなら、さようなら。久しぶりのお仕事《ビズ》。こうして年金は滞納され鮮やかな色の封筒だけが手元に積まれていく。やはり猫やワンちゃん捜索の依頼を受けるために事務所を一階に据える時なのだろうか。

 そして、再びバラ色が鮮やかに見えたのは、警察の望まぬ訪問を受けた、あの昼下がり。
 彼女は何故か死んでいた。

続く


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