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なんで素組を作品と言ってしまうのか?

承前

別の角度から考えてみよう。

私が作ってるこのジムスナイパー2、過去記事漁ればどこをどう加工したか記載がある。仮に誰かがその記事見て寸分私のと違わぬジムスナイパー2を作ったら、それは誰の作品であるだろうか?

作ったのは超テクの人だけど、それは「私の作品の模倣品」である。その身体バランスや造形の変化を構成したのは私だもの。名画の贋作とか臨写みたいなもんだ。

仮にロボ魂買って来てパーツ単位で分解し、それを組み立て直したら「組み立てた人の作品」と言えるだろうか? 言わんよな。組み立てた人のアレンジ入ってない訳だし。ちゅーか組み立てただけで作品扱いされるなら、ロボ魂は中国の女工さんの作品になってしまう。どう考えても製品デザインこさえた人の作品なんであるが。

作品ってーのは、組み立てた人ではなくデザインした人の物なのよ。

割と単純な話で、プラモってのは基本「メーカーがデザインした物だから」、ただ組み立てただけだと「メーカーの作品」或いはメーカーから受託したデザイナーの作品なんですわ。組み立てたら作品になるなら、トヨタの期間工も車の作者になっちまう。それは流石に違うやろ。

だから何でかガンプラ界隈では「改造」と言う「アレンジ」に強い関心を持つし、素組に蔑視の感情持つ人が多い。

個人的に申せば、作品作りでは無いがガンプラ組み立てるのは楽しい。HGとかサクッと組み上がるし、組み立てながら「バンダイまたウデ上げたなぁ……」とか感服してる。素組も楽しいのよ。つーか、組み立ても、アレンジも、加工も色塗りも塗装も(私の観点では色塗りと塗装は別の作業である)、ガンプラのポージングも写真撮影も楽しい。

プラモデルの楽しみ方は多種多様なのである。

しかしこの「楽しいネ☆ わーい♪」でえーのんに、何でか話を小難しくと言うか、必要以上に高尚にしたがる人もいる。

「素組も作品です」勢力だ。

思うに、作家性の付与とかアレンジの大きさに着目して「出来を見ない」とか、作家や作品のどこに技が出てるか気にしない人々なのだろう。正直八方美人だと思う。

カップラーメンにお湯を注いだり、厳密に指定通りの湯を沸かして袋ラーメン茹でるのは調理だろうか? そしてそれは調理者の料理として出せる物だろうか? 私は日清だったりペヤングの料理だと思う。ただ、そこに「もっと美味くしたい」の観点から湯の量を増減したり、胡椒やラー油垂らしたり、野菜入れたり、色彩が欲しいと人参飾り切りしたりしはじめると「段々その人の料理」になって行くんじゃないかなぁ?

実は私が近年進めている「fineに作ろう」と言う、「元デザイン尊重、イリズミへの筋彫り追加や塗装を要さない関節間位置の調整、面取り変更」は、大工作に走りがちな現状のガンプラ界隈へのアンチテーゼである。機材全部買い集めても34000円ぐらいで必要な物全部揃う。また「失敗し難い」
ただ真似ただけでは私の作品の臨写になってしまうが、方法論やイズムが理解できたら「同じ様なアプローチ」でオリジナル工作も出来るだろう。

金ヤスリがやたら多いが、基本こんだけ工具があればかなりのアレンジが出来る。
そも私は「粘土細工の方が得意」なので、耳目集めるだけならエポパテ捏ねた方が手っ取り早い。

しかし敢えて「fineに作っている」のは、組み立てから塗装、仕上げの各工程で「どの様にするのが良い」のか、最終的に「どんな仕上がりを目指すのか」を例示する為である。極めて単純でしょーもない話をしているのだけど、実は今のガンプラ界隈ではこの視点がびっくりするほどプアである。

例えば、バンダイとかツノダの子会社で大山倍達遺族や空手バカ一代の作者周りから怒られたりしないのかという「神の手」を名乗るニッパー屋の極めて不可解なニッパーが目指しているのは、「パチパチと楽に誰でも一定品質のモデルを組み立てること」であって「作品作り」ではない。彼らの提供するソリューションでは「組み立ての楽しさ」であるとか「作業の楽しさ」は堪能できるが、創作という個性の発露を楽しむことが出来ないのである。
それは実の所「どーでもいー話」で、作家性の追求や「作品作り」はガンプラ被写体にしたガンプラ写真でも楽しめるし、組み立て工程紹介やレビュー記事作成でやっても良い。ガンプラは自由なのだから皆が皆「立体創作物としての作品」作る必要はない。でも何でか「ガンプラはどの様な形であれ作品であるべきである」という頭硬いヤツがおるんだよ。「作品」じゃなきゃダメなんか? 大体「作品」の定義は何なんだ?
塗装にしてもエアブラシ買え派はぎょーさん見るが、エアブラシで「どんな塗膜作るべきか」語る奴は少ない。結果としてエアブラシ使ってるのに柚肌になってるとか地獄の様な状況になってんだけど、だーれも気にしない。エアブラシでキャンディ塗装しました!でブッツブツの塗面見せられると「ペンキ塗りからやり直そうな」と言わざるを得ない。エアブラシ推進派は買わせるだけではなく「使いこなし方」も教えてくれたまえ。私が見る限り安易にエアブラシ勧めてる連中はペンキ塗りすらマトモに出来ない気がするのだが。

ゲートの切り残しを気にするくせに面の平滑とか構成は気にしない。ちゅーかごく僅かな凸凹を確認するやり方すら知らない(光沢反射面の光り方で確認する。シリコンウエハーの歪み検査でも使う古典的なやり方だ)
この様な基礎的な検査・確認方法を知らないものだから、塗膜がガッタガタでも気にしない。で、面が歪んで塗膜もガッタガタなのを隠す為につや消しトップコートを噴いて「歪みを気取られない様にする」のだけど、それすら理解してないから艶消し噴いたのに光沢反射を撮影してしまい加工の未熟さやチェックの甘さを気取られてしまう……と思いきや、鑑賞者も同レベルで仕上がりを気にしないからバレない(頭を掻きむしる)

ど偉い事になってんで!

この様な基礎工作が残念極まりない状況で筋彫りだのプラ板小片貼り込みだのするのだから、制作物のクォリティは下がる一方だ。勿論自発的にやる作業は案外楽しいので「工作を楽しめた」であろう事は間違い無いが、結果として出来てきたガンプラは必ずしも創作物として高品位であるとは限らない。加工や作業が下手なのは置くとして、それも作品であるならある一定の評価も得られようが……

先にも書いたが、作家の作家性は「製作者が企図して追加した工作・変化」なんだけど、ヨレた筋彫りや粒々の表面、シンメトリーが出てないプラ板小片貼り付けは「意図してそうしたものなのか?」

カッコいい要素を塗そうとして加工をしたのに、基礎技術が足りなくてむしろ「格好良さを減じている」なら、ここが惜しかったと率直に伝えるか、紳士的に口をつぐむべきかと思う。物事の良し悪しも解らん連中に担がれるのは不幸な事だ。それは創作という「作品を良いものにして行こう」という意志・行動において「阻害事由」となり得る。

方針変えて、noteでの収益は我が家の愛犬「ジンくんさん」の牛乳代やオヤツ代にする事にしました! ジンくんさんが太り過ぎない様に節度あるドネートをお願いしたいっ!