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Web小説乱読から

7月にTwitterアカbanされてから割と暇だったんよ。何か読んでるか何か喚いてるかしてないと精神的に不安定になる不思議な生き物だから、出力先を失うとひんじょーにアレなんですな。

んで、暇な時間をWeb小説乱読で過ごしたり、カクヨムなんてサイトで文字出力して過ごしてたんだが、その際気が付いた事がある。

1.我々は日々短文脳になって来ている。

転生したらスライムだっただかなんだか、最近流行のラノベがある。大変好評な様なので試しに最後まで読んだが、どーにも違和感が拭えないのである。最後まで投げずに読めるのだから文章が不味い訳じゃないのだが、なーんつーか、こー、頭使わないと言うか「楽すぎる」 楽しいのではなくラク。その後辺境の老騎士の漫画版からWeb小説版読んで、こっちは伏線の貼り方や回収の仕方に大変感銘を受けたが、なんか引っかかる部分がある。で、Web版タダで読ませて貰うだけでは作家に銭が落ちないので小説本買ったのよ。

角川は本の体裁とか版組どーでもいーんか?

ここで違和感の正体に気付いた。段落構成や誌面の構成がWebでの公開前提のもののままであり、紙面にすると大変こー、雑なのである。ガッキョンガッキョン改行して文頭インデント入れて…で、つまり僕らがネットに放流してる駄文や呟き、掲示板とかで見るスタイルのアレが41字で一行の小説単行本にぶち込まれて大変スッカスカな状態のまま、行頭インデントとか「文芸内版組ルール?」だけ適用されてめっちゃ紙面が汚い感じなの。私の違和感の正体は「センテンスがみじけぇな」と言うWeb界隈のノリと読んできた小説類との差異だったのだ。

2.大衆小説の文

筆者は所謂大衆小説という分野に多大な興味を持ってる人間である。少年期に暇すると親父の書架から本引っ張り出して読んでた関係上、半村良の妖星伝とか司馬遼太郎短編集、西村寿行とかを読んで暇を潰していた。(1980年前後から大衆小説という時代の徒花ばかり読んでた感) この頃から純文学に近い方面では四角い文字列がページにドーンなのに大衆小説分野では短文を連ねたり会話文で紙幅稼ぐ傾向が見て取れるのだが、これがラノベという1990年代辺りから勃興した「新しい大衆小説の形」で更に加速し、まおゆうで戯曲調の作風が生まれると更にこれが加速した。まぁアレ、2chとかで連載してたっちゅー部分で仕方ないとこもあるけどな。ウルトラ長い文節作るとブラウザの関係上1行がめがっさ長くなるし。

恐らくは、だが。この地文が極端に減少した作風であるとか、エロゲやゲームのテキスト(目的の絵まで、或いは選択肢まで無駄な文字列すっ飛ばせる系)の文字文化の流入、そして今我々が手にしているスマホという端末のブラウザの見え方により、我々はなんかもーめっちゃくちゃ「長い文章や段落が読めない病」に日々身体と脳を蝕まれている。

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上記は角川のブックウォーカーで無料で読める「ラグビー知的観戦のすすめ」なる文章の一部であるが、18行中実に8行がインデントされてるという「知的とはなんぞや」的な迷文である。筆者氏には悪いがはっきり申し上げてバカにしか見えない。意味なく改行を挿入してインデント入れて、行頭が日本海の荒波の如くギッタンバッタンしてしまっている。何故角川の新書出してる連中は作文指導せんかったのだろうか。詰めたらページ数が2/3ぐらいになって本の体裁取れないから甘受したのか、それとも編集部や編集担当がストライキでもしているのか。もしかして編集部員もギッタンバッタンなのか。樋渡啓介だかなんだかの沸騰図書館だかも中の文章が素人丸出しのまま刊行されてたが、どーなってるんだコレ?

3.何故こうなるのか

カクヨムなどでは(恐らくは先のブックウォーカーなどでのマネタイズを期待して)登録作品を縦組みにして読むことが出来るのだが、小説単行本の版組に近い形にすると「すんごいの」が嫌と言うほど読めるのだ。平均段落文字数2桁、行頭に「だ。」とか「った。」が来て下が空白とかめっちゃ多い。50文字前後の一文で段落を構成するとか、そんな感じ。書店で見かけたある本なんか、これに加えて更に段落毎に空白行挟むと言う「文字売ってるのか空白売り付けられてるのか分からない」本であった。これは誓って本当なんだが、それ見た時に「本当に膝から力が抜けて崩れ落ちそうになった」 いやマジで。これを「厚み同じだから定価1300円でーす」とか最早詐欺だろ。冗談も程々にして頂きたい。紙にインク付けたの売るのが仕事じゃないのか、出版社って。

見るに、Web界隈の文章で用いられるパラグラフ単位でPタグで括り「空白行でパラグラフを表現する技法」と文芸の「改行+文頭一字下げ」が悪魔合体した上に「スマホ」と言う1行文字列がメタクソ短いデバイスでの文章入力により、100文字くらいの文字列が「長い文塊に見えてしまう」、又は2chなどに端を発するBBS文化圏のやり方が短文化を促進している気がする。例えば短文連ねる方式でもHTMLという「版組が環境により可変である」場合は行頭字下げをしない為に見苦しくならないのである。この記述形式に慣れた人の書く文章…分類の為に「Web文」とするが…を書籍の形態に無変換でぶっこんではいかんのだ。

試しにWeb文の典型例である「転生したらスライムだった」の単行本を見てみたら、余りの短文に編集部が危機感持ったのか2段組になっていた。まぁあの文1ライン41文字フォーマットにぶっ込んだら下がスッカスカ過ぎて話にならんからな。あれは英断だろう。他のレーベルもそれぐらい気を遣って欲しい。

更に、手元にあれば実際に確認して欲しいんだが、ゴブリンスレイヤーの小説単行本…文頭部分や文末に注意して眺めて欲しい。これ、文芸規則に則り段落始めを一字下げしてるんだけど、大部分の段落が35〜40文字くらいでまとまってて、行頭が一列に整列してんのね。編集部の入れ知恵か作者氏の工夫なのか分からんけど、現代の読者のニーズと文芸側要請、そして誌面の見てくれを上手く合致させた「良い文章」だと思う。こういうのこそ「文の芸」だよな。ライティングの仕事してる人間なら分かると思うが、売文する際に求められるのは最終出力状態での「ライン数」であり文字数ではない。このライン(行)単位での納まりの良さとか「文の塊のボリューム」で版組意識しながら文字書くんですよ、紙媒体の文字書きは。Web文のみの人はHTMLの基準しか知らんからかこの意識が無いか希薄である。それが紙媒体単行本化された際に可視化されてしまっているのだが、それを「酷い」とか「恥ずかしい」と思わない編集が多いのであろう。そういう指摘って編集の仕事ではないのか。

まとめ

なんとゆーか、紙媒体単行本やってる連中のセンスが悪い。Web文と紙媒体の体裁の違いや意味段落という考え方、パラグラフ単位で文章まとめるとゆーここ百数十年ぐらいの「モノカキの作法とか誤読防止策」の意味を全然理解してないだろうし、行頭字下げとか「ルールだからそうしてる」だけでルールの背後にある思想性とかには気を配っていないのだろう。仕方ないので自分ぐらいはそーゆーとこまで考えたいかなーと。

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方針変えて、noteでの収益は我が家の愛犬「ジンくんさん」の牛乳代やオヤツ代にする事にしました! ジンくんさんが太り過ぎない様に節度あるドネートをお願いしたいっ!