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「竜とそばかすの姫」は夏の風物詩となりうるか?

日本の夏、ジブリの夏。

そんな言い回しに表されているように日本の夏休みといえば宮崎駿監督によるジブリ作品が映画館で上映されるのが風物詩ともなっていて、当時大学生だった自分は映画館でアルバイトをしていたこともあり、「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」のときの文字通り映画館に大勢のお客さんが来るのを目の当たりにしながら夏を感じていたものでした。

それが2013年の「風立ちぬ」で宮崎駿監督の引退宣言もあり、それ以降も企画作品やジブリ関連の映画はあれど夏の風物詩というわけではなくなってきています(そもそも夏に公開していないものもありますし)。

それから8年、細田守監督の最新作「竜とそばかすの姫」が満を持して公開されました。
公開したばかりではありますが4連休明けの平日レイトショーならば空いていると思いいそいそとでかけてまいりました。

細田守監督作品は2006年の「時をかける少女」以降は全て映画館で鑑賞しています。
前作の「未来のミライ」からは3年ぶりの作品となります。

ということでここから「竜とそばかすの姫」の感想になります。

本編のネタバレを大いに含みますので、できればご鑑賞後にお読みください。


「竜とそばかすの姫」あらすじ


高知の田舎で暮らす女子高生すずは歌うことが大好きだったが、事故で母親を亡くして以来人前で歌うことができなくなっていた。そんなある日、全世界で50億以上の人が集う仮想世界"U(ユー)"に接続する。そこでは誰もが現実とは違う自分"As(アズ)"として別の人生を生きることができる。すずはU(ユー)の世界では"BELL"として、以前のように歌を歌うことができた。しかもその歌声は素晴らしくU(ユー)の中でまたたく間に人気者となっていくのだが・・・。

序盤のあらすじはざっとこんな感じでしょうか。

ここからBELLはどんどんスターダムを上がっていき、その一方で現実のすずとのギャップに苦しむ・・・的な展開には全くなりません。

中盤のあらすじは以下のようになっていきます。

BELLはU(ユー)の中でライブを開催することになる。しかしそこに突如"竜"と彼を追跡するジャスティン率いる自警集団ジャスティスが現れ、ライブが中断されてしまう。竜はU(ユー)のバトルゲームで圧倒的な強さを誇るもののそのラフプレーぶりで恐れられるとともに嫌われている存在らしい。観衆はライブを邪魔されたことで竜の正体("オリジン")探しに躍起になり、ジャスティンらも竜の正体を晒す"アンヴェイル"しようと竜を追い詰める。一方、BELLもまた竜のことが気になりやがて彼の住む城を見つける・・・。

ここでもう1人のタイトルロールである竜が登場します。
BELLは竜とともに様々な困難に打ち勝ってU(ユー)の世界でも、現実でも幸せになっていく・・・的な展開には全くなりません。

終盤の展開は・・・

竜の全身にアザのようなものがあってそれが龍の現実の姿を反映しているのではないかと考えたBELLは、膨大なファンの中から、自分が竜の城で歌った歌を口ずさんでいる動画のアカウントを発見する。そこには小さな男の子とその兄の姿が映っていた。それがなにかのSOSなのではないかと思ったが自分をBELLだと信じてもらえなかったすずはジャスティンのライトを自ら浴び、U(ユー)の世界ですずの本来の姿を晒します。この姿を見て竜のオリジンである恵と弟のトモは、すずのことを信じ、自分たちの状況を伝え助けを求めますが、それを察知した彼らの父親によって接続を遮断されてしまう。はたしてすずは恵とトモを助けることができるのか!

あれ?

途中途中での展開予想は大きく裏切られたのはともかく、だいぶあさっての方向に物語が展開していき、ラストのまとめ方としても正直、なんだかな・・・という印象は拭えませんでした。このあたりは前々から言われていた細田守監督のストーリーテリングとしての問題があるのかもしれません。


描きたいことと描くべきことの差異

さて、過去の細田守監督作、以下のA群、B群だったらどちらが好きですか?

A:「時をかける少女」「サマーウォーズ」
B:「バケモノの子」「おおかみこどもの雨と雪」「未来のミライ」

自分もそうですがおそらくAの方が人気でしょう。
この2群は制作時期も分かれますが、Aは脚本のクレジットが奥寺佐渡子となっているもの、Bは細田守監督が脚本も担当しているもの、という区分になります。本作もBになります。

つまり監督自身が脚本を担当していない作品のほうが個人的には、そしておそらく世間的な評判においても高評価になっているのです。

本作で細田守監督が描きたかったものの一つに、自分なりの「美女と野獣」というものがあったそうです。すずのAs(アズ)はBELLですがU(ユー)の世界で人気になるとBELLEとも表現されるようになる一方で、竜はBeastとも表現されています。これはまさに美女と野獣そのものでもありますし、中盤のシーンで2人がダンスをするところなんてまさにそのままですね。

ただ「美女と野獣」では、ベルが野獣の見た目にとらわれず惹かれていくという、相手を見た目ではなく内面で理解するべきという普遍的なテーマがあるのですが、それが本作にはうまく反映されていません。BELLがなにゆえ竜に惹かれていくのかがイマイチ伝わってきません。そして竜も特に醜い存在として描かれているわけでもないので、このあたりの展開はよくわからず、ただこのシーンを再現したかっただけ、という印象が強いです。
むしろ上記の中盤以降の自分が考えた妄想展開ならばなんとなく理解できるんですが、そういう展開にはなっておりません。

その後、竜(のオリジン)は誰だ、というまさにフーダニットのようなミステリー的な展開になるのですが、ここで竜の候補としてタトゥーアーティストや自分を幸せな家族の持ち主だと偽るお婆さん、そして体を人に見せない野球選手などが挙がってきますが、結果、竜は恵なので、この誰でもありません。
この3人は明らかなデコイという感じもあるのでそれは良いのですが、竜の正体がこれまで登場してきていない(厳密に言えば映像としてはワンシーン映っていますが)対象にしてしまうので、物語もややあさっての方向へ向かってしまいます。
ミステリーの鉄則として知られるノックスの十戒でも「犯人は物語の始めに登場していなければならない」と書かれているように、既存の人物の中にいるから盛り上がるのであって、そうでないと白けてしまう展開になります。

そうまでして竜の正体を恵にしたかったのは、依然として問題視される子どもへの虐待を描きたかったからなのかもしれません。恵とトモが住んでいるのは東京で、すずたちのいる高知とは遠く離れています。劇中でも最初は児童相談所のようなところに連絡をしているのですが、48時間以内に対応すると言われただけでそれでは間に合わない!と思い、すずは単身高速バスで東京に向かうことになるのですが、このいわゆる「48時間ルール」は実際にもあるもので、児童虐待などの問題を受けて政府が決めたものだそうです。ただ人手不足などの問題からそのルールすら守られていないということが浮き彫りになってきているようで、それならば高知からバスで行ったとしても次の日の午前中には到着できるから、もし他に誰も助けてくれるあてがないとしたら駆けつける意味は出てきます。

誰も助けてくれるあてがないとしたら、ですが。
ここも正直疑問で、トモのyoutubeのような動画は自分たちへのSOSなのは明らかなのですが、それに気がついたすずに対し恵は全く信用をしてくれません。結果的にすずは自分をアンヴェイルして正体を晒すことでようやく信じてもらうのですが、助けを必要としている状況で、助けてくれようとしている人がいるのに、なぜそういった対応になるのかは疑問でした。むしろすずをアンヴェイルさせるための強引すぎる手段という印象にしかなりませんでした。

そもそも恵とトモが緊急に助けが必要なレベルなのかも疑問です。
もちろん父親から虐待を受けていることは事実で、これがエスカレートしていけば殺されてしまうなんてことにもなりかねないのは分かります。
ただ、恵とトモは頻繁にU(ユー)に接続してるんですよね。そういう時間も環境(接続のためにはネットワーク環境と耳にはめている生体認証用の端末みたいなのが必要なはず)も与えられているのが若干の違和感があるし、すずが東京に行ったとき、二人は家から抜け出しているんですよね。そのあたりも2人の置かれている状況の緊迫感が薄れてしまった印象でした。

結局のところ、すずがアンヴェイルしなければ恵とトモが信用してくれない、そうまでして助けなければいけないという緊迫感がないというのが大きな問題という印象でした。

このあたりで個人的に納得の行く展開にするとすれば、一躍"時の人"となってしまったBELLは恵とトモを救うためには彼らのアカウントを見つけなければならない(この辺も疑問ですよね。アカウントが隠れているのであればフォロー、被フォローといった関係も崩れそうだしトモはともかく恵のアカウントが見つからないというのは無理がある気が)。その"ため"に、BELLはアンヴェイルし"すず"として仮想世界で他の人々の前に真実の姿を見せる。失望したファンがフォローを解除していき、最後に残るのがトモのアカウント・・・といった形であれば、アンヴェイルする意味も出てきますし、さらには仮想世界でのスターダムかたった一人の人を救うのか、という選択の物語として成立していきます。

映画ではすずはアンヴェイルした直後にも歌を歌いますが、歌声自体はすず本人ではなくBELLそのものの歌声で、それを耳にした聴衆が涙をする、という形で結局アンヴェイルしたから歌を歌えなくなったりフォロワーが減ったりはしていないんですよね。もっとも顔バレしてしまったことで現実世界では今後は大変そうですけどね・・・。


U(ユー)、楽しいの?

こう書くとなんだかジャニーさんを彷彿とさせますが、世界中で50億もの人々が接続している巨大仮想世界となっていますが、そこで何ができるのかもよくわからないんですよね。
すずの歌が話題になってそれでライブを開くまでになるのですがそのライブ会場みたいなのを作れるのは確かに仮想世界ならではかもしれません。他には竜はバトルゲームで名を馳せているとは出てきますが、このバトルゲーム自体は過去の対戦がダイジェスト風に描き出されているぐらいでほとんど出てきません。そしてそれ以外の人たちは何がしたくてこの世界にいるのやら・・・。

「サマーウォーズ」では仮想世界ではゲームやショッピングだけでなく行政手続きなども可能な文字通りの仮想世界でした。
あるいはスティーブン・スピルバーグ監督の「レディープレイヤー1」では環境汚染や政治の機能不全により現実世界はディストピア化している中で、人々は現実逃避と仮想空間内に隠された鍵を見つけることで莫大な財産を手にするチャンスがあるといことで、仮想世界にのめり込みます。

それが本作の場合、大量の人がいることはわかっていますが大半はその他大勢のようにそのへんを漂っているだけで一体何をしているのか、何が楽しいのかという印象が拭えません。
謳い文句に「現実の自分とは離れて・・・」とありますが、かといってなんにでもなれるというわけではなさそうで、自身の生体情報をベースにはしているのである程度制限はありそうです(リセマラはできるみたいですが)。
ただ何かがあるたびに大勢がコメントを残す(ここで世界各国の言語が出てくるのも印象的)のがまさに現代の匿名ネット社会を揶揄しているような気はします。


細田守監督はネット肯定派?

これはインタビューなどでも非常によくご自身が仰っていることなのですが、「サマーウォーズ」も本作も広大な仮想世界が物語の重要なキーを占めているように、なるほどそういう世界を描くことには人一倍意識が向いているんだなあとは思います。
ただ本作においては、すずの母親が子どもを助けて死んでしまったときにも誹謗中傷が溢れ、それゆえすずは心を閉ざしてしまいますし、U(ユー)の世界でも様々な誹謗中傷が飛び交います。
またジャスティンたちは仮想世界の治安を守ると自負していますが、これはまさにこのコロナ禍で問題視された自粛警察のような存在とも取れるのではないでしょうか。
そして、これだけたくさんの人がいなから恵とトモのSOSには気が付かない傍観者たち・・・。

インターネットは確かに便利だし今や我々の生活には欠かすことができないものであるが、その匿名性によって相手を誹謗中傷したり、自分の価値観を押し付けたり、場合によっては相手を死に追いやることもあるんだということを主張したかったのかも知れませんね。


押しも押されもせぬトップランナー

本作ではインターネットの功罪、児童虐待問題を取り上げつつ少女の成長物語を軸とした「美女と野獣」が作りたい!細田守監督のともすればわがままとも言えるような企画を具現化したということでしょう。
そのためどうしても無理やり詰め込んだような設定や強引な展開になってしまったのでしょう。

ただこの"わがまま"言い方を変えればエゴや作家性になるんだろうけども、これはクリエイターとしては非常に重要な資質だと思っています。

宮崎駿監督も「もののけ姫」にしろ「千と千尋の神隠し」あたりもそうですが、「崖の上のポニョ」や「風立ちぬ」あたりは監督のエゴ丸出しの作品という印象です。
死生観、運命論など深く考察すればキリがないほどのテーマ、メッセージ性を持ちつつ「ポーニョポーニョポニョ~♪」と子どもでも純粋に楽しめる要素を同時にあわせ持つというのは改めてすごいとは思いますが・・・。

新海誠監督は最初は自分の作りたいものだけを自分で作るというまさに作家性そのままを具現化したような映画づくりでしたが、「君の名は。」ではそのバランスを上手く調整して歴史的な大ヒットにつなげました。かと思えばその後の「天気の子」では前作の規模を維持しつつ再び自分の世界観に戻ったような作品になっているのもまたすごいですね・・・。

そして庵野秀明監督。彼のライフワークとも言える「エヴァンゲリオン」シリーズはまさに彼自身の精神世界をメタファーとしたかのような作品にもなっています。

細田守監督も今やこうした日本アニメ界に燦然と輝く巨匠の一人になったというのは事実でしょう。


それでも映画館で見るべき!

とまあどちらかと言うと批判的な目線で書いてきてしまいましたが、それでもやはり本作は映画館で見るべき作品だと言えます。

まずはやはりそのビジュアルですね。
仮想世界U(ユー)の文字通り無限の空間とも思える世界観、そして日常の世界をアナログ、仮想世界をデジタルと作画技法のレベルでも分けているというのにもしっかりとこだわりを感じます。
そして音楽。
本作の主題歌を始め音楽を担当したのはKing Gnuの常田大希が率いるmillennium paradeです。歌はすずの声も担当している中村佳穂で、とにかく劇中に出てくる楽曲が素晴らしい。作品内でもこの歌に仮想世界の中の人々が酔いしれるわけで、それもうなずけるぐらいの音楽になっています。
BELLの仮想世界ライブの再現がDVD特典とかにならないかと期待しちゃうレベルです。

このビジュアルと音楽を体験、体感するだけでも映画館の大スクリーンで見る価値は十分にあります。
前の記事で作品に適したフォーマットについて書きましたが、本作に関して言えば、まさに映画館の大スクリーンこそがフォーマットであり、これは自宅のテレビやパソコンでは十分に堪能できないまであります。

ということで大変長くはなりましたが、物語や設定はともかく映画として楽しめるかにおいては十分に保証できる作品となっています。

ただやはりこの世界観や表現能力で設定や物語も素晴らしい作品を見てみたいなあ、とは思ってしまいますね。

いつか、日本の夏、スタジオ地図の夏、と言われる日が来ることを待ち望みつつ・・・。

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