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オレンジ

「上にまいります」
白い手袋をした指先はピッとまっすぐ上に。背筋もまっすぐに伸ばして。お客様には笑顔で。
土曜の夜、閉店まであと三十分となった百貨店に、これからご来店のお客様は少なくってきた。
「このエレベーターはご利用階止まりでございます」
「開」のボタンを押したまま、一歩外に出て声をかける。中に入っていくお客様は五名程度。
今日のお仕事終わりまであと一時間ちょっと。なんて雑念はだめかな。
エントランスの様子を見て、もう利用される人はいないだろうと見切りをつけた。「開」から手を離したとたん、
「あー、乗る乗る、乗ります」
大きな声がドアを開けた。正確には、派手なネイルをした女の人の手が。
どこからきたんだろう。事故にならなければいいんだけど。こういう人がすぐ「はさまった」とか言ってクレームつけてくるから。注意しなきゃ。
オレンジ色の大きな花柄のワンピースに、黒いジャケット。シャネルのハンドバッグ以外は手荷物を持っていない。
「だから、あたしはこれから用があるんだって。言ったでしょ、昨日」
携帯で話すのをやめない。エレベーターが動き出したらすぐ通話が切れるからいいけれど。この時間に来店ということはレストランかな。
「わかってる、ダイスケのことはいつもいちばんに考えてるから」
じゃら、と携帯のアクセサリーが音を立てた。早く電波が切れればいいのに。三階をご利用のご婦人がいて、かろうじて電波がつながっていることがもどかしい。
ドアのすぐ脇、案内板前に立つ私のすぐ後ろに、オレンジの服の女性が立っていた。ほかに乗客は、ヘッドホンをつけた黒づくめの男性(二十代)と、
当店の紙袋をお持ちの老夫婦(六十代)。オレンジの女性は、さしずめ三十代といったところか。意外と私と変わらないのかもしれない。
「だからね、今日はカップラーメンでも食べて……え、なに?不満なの?なによ……あぁもう」
じゃらじゃら、と物がぶつかる音がしたから、女性の携帯がやっとここで切れたらしい。
それを境に、エレベーター内には静寂が訪れた。
六階のCDフロアで黒い若者が、八階の催事場で老夫婦が、そして十二階のレストランフロアでオレンジの女性がおりていった。だれも乗らない屋上で折り返し。
「あれ?」
ふと、足元に何かが光っているのを見つけた。
拾い上げると、住宅の鍵のようだ。グッチのストラップがついている。
さっきの乗客の中で誰かが?
まず、騒がしかったオレンジの女性が浮かんだ。ハンドバッグに携帯を入れたときに音をさせていたからそのときに落ちたのかも。
だいたい家に誰かを置いてまで食事に行くとは何事だ。かわいそうな「ダイスケ」君はひとりさみしくカップラーメンを食べているというのに。
ダイスケ君。長年の付き合いで馴れ合ってしまった彼氏かな?
いやなところはないし大きなケンカもしないけれど、会社の上司に誘われた食事を断る理由にもならない。それがきっかけで不倫になったり?それも楽しいかもね。
それくらい言い出しそうな雰囲気だったもの。あんな派手な服を着て。
じゃあ、私がこの鍵を引き取って開けに行ったら?

駅から徒歩五分の、真新しくはないけどきれいなマンション。エレベーターで最上階へ。
「おかえり。……あれ?」
着古して首のあたりがゆるくなってきたTシャツに、ユニクロのジャージ。カップラーメンを前にうなだれていた彼が、私を見て驚いた顔をする。
「大丈夫よ、ダイスケ君」
私は駅前のスーパーの袋から、晩ご飯の材料を取り出す。あんな女より、はるかにおいしいご飯が作れるわ。
「私がいるから」
実家暮らしだと腕をふるう機会がないけど、食べてくれる相手がいるなら大丈夫。
「ありがとう。君みたいな人を待ってたんだ」
にっこりとダイスケ君は笑って、私に手を伸ばす……

「お疲れ様でした」
インフォメーションの受付嬢に笑顔であいさつ。
「あ、さっき鍵を拾ったので、お問い合わせがあったら警備室へ」
「鍵?」
私は実物を見せて、拾ったときの状況を説明した。
帰りにこれを警備員さんへ渡せば、私の役目はおしまい。
たのしい物語もできたし。
「ちょっと、落し物したんだけど」
受付の子と話していると、大きな声がさえぎってきた。
振り返ると、オレンジの花柄。
「鍵を……あ、それ!」
「こちらでお間違えないでしょうか?」
「よかったー。レストラン入ったらなくなっててあせったのよ」
よく見たら、女性のハンドバッグの上が開きっぱなしになっている。そうとう急いできたんだな。
「ではこちらに受け取りのサインを……」
「これなかったら家に入れないじゃない?それより誰かに拾われたら困ると思って。小さい子供置いてきてるんだし」
「お子さんですか」
「そう。今日は学生時代の友達に会うから、ダンナももうすぐ帰ってくるしって言ってたんだけど。男の子はいつまで経っても母親に甘えるから困っちゃうわよ」
着古したTシャツの、カップラーメンを前にした、ダイスケ君は……ママの帰りを待っていた。
「ありがとうございました。お気をつけて」
また急いでエレベーターに落し物をしないように。お気をつけくださいませ。
営業用の笑顔でオレンジの花柄を見送った。
エレベーターの扉がしまったとたん、笑いがこみあげてきて、あわててトイレに駆け込んだのだった。

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私はお話を書くときに主にWordを使っているのですが、このお話はメモ帳に入っていました。当時の様子をまったく覚えていない。作成日は2009年でした。学校の課題だったのかな。
途中の妄想のくだりが私の文章で笑いました。そうそう、こういう妄想をよくしていた。

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