『ケンゴウ』と『ケンゴウ』前編 【小説】
『彼』は飢えていた。
思えば子供の頃から人一倍、体も大きかったし力も強かった。
幼稚園、小学校、中学、高校と。
年上年下含め、ことタイマンで負けたことはただの一度もなかった。
むしろ、小学校の高学年にもなると『彼』は手加減しなくてはならなくかった。
なぜなら、自分が本気でケンカをすれば相手に大怪我をさせてしまう事を知ったからだ。
中学に上がると、そんな『彼』の噂を聞きつけた、上級生だの他校の不良だのにケンカを売られることが多くなったが勝ち続け、高校に上がった頃には、一人で暴走族を潰しただの、ヤクザにスカウトされただの、終いにはケンカ相手を殺して少年院に入っていただのと根も葉もない噂が広がり、否定するのも面倒なので放っておいたら、いつの間にか一人ぼっちになっていた。
『彼』は飢えていた。
街の空手道場に『彼』が通い始めたのは高校二年の春。
たまたまテレビで見た格闘技の大会がキッカケだった。
『立ち技最強』と銘打たれたその大会では、白人や黒人の屈強な男たちが殴り合い、蹴りあっていた。その大会を主催していた団体こそが、全国に支部を持つ件の空手道場だったのだ。
基本的な『型』の稽古や、基礎体力をつけるためのウエイトトレーニングや走り込みを経て、兄弟子との初めての『立ち稽古』で『彼』は初めて負けた。
『彼』の渾身のパンチを見切った兄弟子の正拳が、急所の鳩尾(みぞおち)を的確に捉えたのだ。
『彼』はその事実に歓喜した。
世の中には自分よりも強い人間がいる。
自分は『もっと強くなってもいいんだ』と。
それからの『彼』は、走り込みやウエイトトレーニングで体を作り、『型』の稽古に打ち込み、兄弟子との『立ち稽古』に望んだ。負けを通して自分の弱点を確認し克服する為の練習を考え、実行する。
そうして一年も経たぬうちに――道場で『彼』に勝てる者はいなくなった。
そんな『彼』が、プロ格闘家への道を選ぶのは最早必然だったと言える。
『彼』は飢えていた。
プロの大会で『彼』は見る見るうちに頭角を現し、デビューから二年余、僅か六戦で王座挑戦の権利を得た。そこには『日本人がチャンピオンでないと視聴率が取れない』というテレビ局やスポンサーの思惑も絡んでいたが、『彼』にとってはどうでもいい事だった。
相手は当時、今世紀最強と言われていたオランダ人選手で、『彼』との試合に勝てば、次はひとつ上の階級、ヘビー級の王座への挑戦が決まっていたらしい。
そんなチャンプとの闘いに心躍らせた『彼』は、一層トレーニングに励み試合に臨んだ。
しかし、結果は惨憺(さんたん)たるものだった。
『彼』は勝った。しかし、その勝利は『彼』の臨んだ形ではなかった。
試合開始三ラウンドで『彼』に勝てないと悟ったチャンプは、そこから『勝つ試合』ではなく『負けない試合』にシフトチェンジしたのだ。
『彼』のパンチやキックの届かぬ位置まで離れ、威力のないジャブでポイントを稼ぎ、劣勢になればクリンチ(抱きつき)で攻撃から逃れようとする。
もちろん反則ではない。だが、形振り構わないチャンプの姿に『今世紀最強』の面影は微塵もなく、最終ラウンド、『彼』の猛攻にチャンプは余力を残したまま倒れ、そのまま起き上がらなかった。いわゆる『嫌倒れ』というやつだ。
その試合を最後に『彼』は団体を離れ、アメリカに発った。
『彼』は飢えていた。
アメリカに渡った『彼』は、『バーリトゥード』の世界に足を踏み入れる。
日本人柔道家「前田光世(まえだ みつよ)」を祖にもつブラジルの柔術一家、グレイシー 一族の存在と共に世に広まった、武器の使用、目潰し、急所以外の攻撃は全て認められる、まさに『何でもアリ』の大会である。
アメリカに渡り、アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ、通称『UFC』と名を変えた『何でもアリ』の闘いに身を投じた『彼』は、金網を張り巡らされた八角型のリングの中での初戦、酷い負け方をした。
パンチ、キックだけでなく、投げ技、寝技、関節技、絞め技というあらゆる技術を必要とするこの闘いに対応できなかったからだ。
『彼』はもう終わりだ。
『彼』を知る誰もがそう思った。そう、『彼』以外は。
次の試合までの半年間、『彼』は地元の総合格闘技ジムに通った。
そこでみっちりと、『組みつかせない』技術と『倒されない』技術だけを繰り返し練習した。ジムのコーチは、
「なぜ、立ち技以外の攻撃を練習しない。立ち技だけでは勝てないぞ」
と、繰り返し忠告したが、『彼』は苦笑いを返すだけでコーチの忠告には決して従わなかった。
そして、半年後。
『彼』は当時、中量級最強と言われたブラジルの選手と当たることになった。
ブラジルの選手にとっては王座戦を控えた景気づけの一戦。前の試合で惨敗した『彼』を、かませ犬として対戦相手に指名したことは誰の目にも明白だったが、彼にはどうでもいい事だった。
そうして迎えたUFC第二戦。
大方の予想を覆し、『彼』は開始一分二十秒で見事なKO勝利を収めた。
続く第三戦では二分ジャスト。そして第四戦、中量級王座に挑戦した闘いでは開始僅か三十秒で王座を奪ってみせた。
最初の防衛戦に四十秒で勝利したあと『彼』は王座を返上。階級を一つ揚げてヘビー級の王座に挑み、二ラウンド一分三十秒、右のハイキックでKO勝利を飾る。
二ラウンドに入り、チャンピオンは『負けない試合』に切り替えたが、格闘家として、また武道家として完成した『彼』には通用しなかった。
彼は飢えていた。
チャンピオンのままUFCを引退した彼、原 一成(はら いっせい)は、日本に戻り道場を構えた。
伝説の『拳豪』の道場には、彼に憧れ、彼を目指す格闘家や、その卵たちが押しかけ大盛況である。
年に一人か二人は、国内外から『道場破り』がやってくるが、彼を脅かす者は現れない。
なぜなら、彼、一成は未だ現役なのだから。
一成が格闘技の大会から引退したのは、『勝てなくなった』からではなく、『闘う相手がいなくなった』からだ。
常人ならとっくにピークを超えるであろう三十八歳になった今も、一成は勝ち続けている。
道場破り相手でも、一成は本気を出したことがない。
むしろ、手加減しなくてはならかった。
なぜなら、自分が本気で闘えば相手を殺してしまう事を、一成は知っているからだ。
原 一成は飢えていた。
道場は盛況、愛する人と結婚し二人の子供をもうけた。
傍からみれば順風満帆な人生。
一成自身、家族を愛しているし、チャンピオン時代に稼いだ、使いきれないほどの金もある。門下生たちにも慕われている。
けれど、道場で一人になった時――
その『願い』が一成の脳内を支配する。
本気で、命を賭けた闘いがしたい ―― と。
しかし、昔ならまだしも、平和で法律も整っている今の時代、そんな『野地合』のような真似は不可能だと一成は知っている。いかに欲し求めたところで、その願いは一生叶わないのだと。
だからこそ――、
原 一成は飢えていた。
そんなある日、一成のスマートフォンに差出人不明の一通のメールだ届いた。
タイトル欄に「招待状」と書かれたそのメールを、一成は単なるスパムメールと思い一度は消去しようとしたが、しかし、何か引っかかるモノを感じ、開いてみた。
メール本文にはたった一行。
『貴方の飢えを満たします。』
と記され、その下にはURLが貼り付けられていた。
どこから見ても、スパムメールだ。
いつもなら、スパムメールは即刻サーバーに迷惑メール申請の後、削除するが、一成の『願い』を見透かしたような、たった一行の文章がそれをさせなかった。
一成のもとに宅急便から荷物が届いたのは、それから二日後のことだ。
対応に出た門下生が持ってきたダンボールを開けると、そこにはヘッドマウント式のデバイスが一つ。
それを被ってログインすれば、アバターを通してまるでリアル世界と同様にネットゲームやSNSで動き回れるという、最近流行のデバイスだと、門下生は言った。
「先生は『アストロノーツ』っていうSNSをご存知っスか?」
「アストロノーツ?」
「はい、ヒーローと悪役に別れて、自分の想像力を武器に戦うことの出来るSNSだそうで、最近格闘家の間でもユーザーが増えてるらしいっス」
門下生によれば、そのデバイスを装着してログインすると、まるで自分自身が『アストロノーツ』の世界に行ったように、自由自在に動けるという。
さらには、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感も再現されるので、例えば相手を殴った感触や殴られた痛みもリアルに再現されるらしい。
「まぁ、痛みの方は限界値があるみたいっスけど。例えば死んじゃうような衝撃や痛みを受けたとき、ある程度は緩和されないと、デバイスを通して脳が『死』を錯覚して、体は何ともないのに脳死みたいな状態になっちゃうとかなんとかで」
そういう状態を『アストロ廃人』と呼ぶのだと門下生は教えてくれた。
「つまり、超リアルな格ゲーみたいなもんか?」
「まぁ、そうも言えるっスけど、格ゲーみたいにコントローラーを操作するわけじゃないっスし、自分のイメージ通りに体を動かせるんで、より実践に近いらしいっス」
「お前もやってるのか? その……アストロなんとかを」
門下生は首を振った。
「興味はあるっスけど、そのデバイス高いんで、アルバイトで一人暮らしの自分には手が出ないっス。それに――」
『アストロノーツ』に集まってくるのは、他流試合を禁じられている武道の人間、それもかなりの強者ばかりで、格闘技初心者の自分ではとても歯が立たないと、門下生は笑った。
「例えば剣術とか、現実の世界で斬り合うわけにいかないじゃないスか。でも『アストロノーツ』なら、自分も相手も死んじゃうことはないスから、安心して闘えるってことみたいっス」
確かに、刃のついた本身で斬り合えば、現実世界ではただの殺傷事件になってしまう。それはわかっていても、一度闘いの世界に身を投じた者ならば、力試しをしたくなるだろう。力を持てば使いたくなるのが人間というのもだ。
それにネットの中なら、自分の名前も相手の素性も知れないのだから、勝とうが負けようが所属流派に迷惑が掛かることもない。つまり――、
(誰に憚ることもなく『野地合』が出来るわけか)
しかも、ルールも、試合を止める審判も、体重による階級もない。
急所攻撃も、武器の使用すらも認められる『何でもアリ』の闘い。
ドクン――と。
自分の心臓が、大きく波打つのを一成は感じた。
スマートフォンの呼び出し音で、一成は我に帰った。
薄暗くなった周りを見回しても、道場には自分ひとりしかいない。いつのまにか門下生は帰ったらしい。
なんだか、夢から覚めたような心持ちでスマートフォンの置いてある場所に向かう。
(そういえばアイツ、なんて名前だっけ)
門下生や練習生を大勢抱える一成だが、それでも全員の顔と名前くらいは覚えていたつもりだったが、ついさっきまで話していた彼の名前が思い出せない。
どころか、今では――その容姿すら曖昧だった。
(俺も年をとったか……)
そんな事を思いながら、手に取ったスマートフォンの画面を見ると、送信相手が非通知になっている。
訝しく思いながらも、通話ボタンを押す一成。
「もしもし」
「こんばんは。『ケンゴウ』さん』
聞き覚えのない女の声。
「……どちらさまですか?」
覚えのない相手への警戒心から、自然と一成の声は低くなる。
「プレゼントは届いたかしら?」
一成の問いには答えず、女は質問を重ねた。
「……あんたが、アレの送り主か?」
クスリと嗤う声が、一成の鼓膜をくすぐる。
「私は、贈り主の代理ですわ」
耳元で囁くような甘い声。
「それで、私どもの使いから『アストロノーツ』の話はお聞きになりました?」
「? いや、その話をしたのはウチの門下生だが……」
今一度、彼の顔を思い出そうとするが、頭の中に靄が掛かったように、どうしても思い出せない。女の「今回も上手く化けたのね」という呟きが小さく聞こえた。
「今、貴方の手元には、『貴方が望む世界』への扉とその鍵がある。貴方は目の前の扉を開く? それとも、開かない?」
ドクン――。
「……送り主というのは一体何者なんだ?」
ドクン、ドクン――。
「彼の名前は『圧倒的 理不尽』(あっとうてき りふじん)それ以外のことは私にもわからないわ」
ドクン、ドクン、ドクン――。
「そいつの目的は何だ」
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン――。
「さぁ? でも、それって関係あるのかしら?」
ドク、ドク、ドク、ドク、ドク、ドク――。
「ずっと飢えていた貴方は今、飢えを満たす手段を手に入れた。
あとは、決断するだけ。
飢えたまま人として死ぬか、飢えを満たし鬼として生きるか」
ド、ド、ド、ドドドドドドドドドドドドドドドドドド――。
「今夜零時、『扉の向こう』で待っているわ」
「……あんたの名は?」
クスリと嗤い声。
「仲間からは『ヴィスパー』って呼ばれているわ。それじゃぁ後で会いましょう。『ケンゴウ』さん」
『囁き』の名を持つ女は、その甘い声で一成の耳をくすぐると、一方的に通話を終了した。
一人になった一成の脳内に、彼女の言葉がリフレインする。
飢えたまま人として死ぬか、飢えを満たし鬼として生きるか。
『アストロノーツ』に、不正アクセスを繰り返し破壊活動をするノットノーツ(ノーツでない者)、通称『ノット』
その『ノット』に新しく加入したヴィラン、『拳豪』の名が知れ渡るのは、この日から僅か数ヶ月後の事だった。
続く
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