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自動贖罪人形

罪を償う、罰を受けるという行為には、浄化作用はあるのだろうか。

わたしはあると思っていたんだと思う。だからやるべきことをやらなかった自分は幸せになってはいけないし、楽しんでもいけないと考えた。不幸になる方向に自分ら進んでいった。
わたしが当初目指した最終ゴールは「不幸」ではなかったはずだ。それなのに、どうして自分からそっちの方へ足を進めているんだろう。

セルフネグレクトには中毒性がある。簡単に罪を償えるから。実際はそんなことは自分の世界の中だけでの問題で、他人からしたらこの人一人で何やってんの?だろう。でも、自分の心の中に湧き上がった罪悪感を少し減らすにはちょうどいい。あえて身体に悪いことをやる。時間を無駄にする。本当はしたほうがいいとわかっていることをやらない。それはそれでまた罪悪感になるんだけど、もはや罪を償いつつ新しい罪を生み出すこともできる二重の行為で、罪を犯す、償う、罪を犯す、償う、という生産性どころか自分の幸せさえ生み出さない時間でめまぐるしく忙しくしては、空虚な人生の暇つぶしをしている。みんなに平等にある時間なんだから、そんな無駄なことに使わなくたっていいのに、と、心では思うけれど、でもわたしは勇気を出してしまうのが怖いんだろうね。失敗を繰り返さないと何も上達しない。そんなことも耳にタコができるほど聞いて、頭ではわかってるのに、それでもどうにか騙し騙し傷つかないように生きようとしてるから、こうなるんだろうな。

わたしという魂が宿されたこの身体、かわいそう。わたしの臆病さのために、罪滅ぼしのために酷使されて。人生は死ぬまでの暇つぶし。それなら、別に生産的なことなんてしなくてもいいから、もっと自分が好きなことをしたらいいのに。
好きなことってなに?わたしは何が好きだったんだっけ?
きっとやりたいことを見つけられてだけで幸福なんじゃない。自分はそのやりたいことをやっていいんだとなんの疑いもなく思えて、できる、それが幸福なんだ。

何も予定のない休日、わたしは出社日と同じ6時に起きる。部屋を大掃除して、洗濯機も回して、新鮮な空気が入り込んだ部屋で丁寧に淹れたお茶を飲みながら本を読みたい。しばらく集中してキリのいいところで時計を見たら、まだ10時。のめり込んで読書をしたときの姿勢で凝った身体を、ストレッチで少しずつほぐしていく。そういえばご飯は食べていなかったんだった。こざっぱりした部屋で、丁寧に作ったブランチを食べる。食器はすぐに洗って、ついでにシンクもぴかぴかに磨く。気持ちがいい。お腹が満たされたら眠くなったので、毛布にくるまりながらひと眠り。起きたときの時間は12時ちょっと前であってほしい、午後だと残りの時間が惜しくて寂しくなっちゃうから。そこからはおでかけしても、お散歩しても、一人でまた本を読んだり映画を見たりするのもよし。早めにご飯をたべて、10時にはお布団に入る。健康的な丁寧な生活。を、本当は送りたい。

実際のわたしはメイクも落とさずに布団に入って、落とさないと・・とか思いながら結局落とさず、ナイトガード(就寝中につけるマウスピース)もつけずに寝て、夜中は何度も目が覚める。豆電球ほどの灯りだけがついた部屋を真っ暗にして、また眠りに落ちる。起きると10時だったり、13時だったり。今から何かをする気にもなれない。一日中だらだらとスマホ画面を見て過ごし、19時頃になってコンビニに出向いてお酒とご飯を買う。だらだらとスマホを見ながら食べ、そのまま眠りに落ちるか、もしくは眠れないまま朝方まで起きっぱなし。外は明るい。鳥もちゅんちゅん鳴いている。全然眠くないや〜とか思っていたのに気づいたら落ちてる・・なんてことがしょっちゅう。冷静に書き起こしてみると最悪だな。

そういう自分に気づいていなかったわけではないと思う。でも改めて自分の頭の中で文字にしてみると、とたんにすっと腑に落ちて、自分が何に陥っているのかが見えやすくなって、どうにかしなきゃと、今自分が犯している罪(自分を大事にしない、やるべきことを先延ばしにする、等)を重ねて安心している自分を、一度俯瞰して見てみようと思った。

最近、わたしはしにたいと考えていた。
でもそれも、自分を死刑にすることで、今抱えているたくさんの小さな罪を、存在ごと帳消しにして楽になろうとしていたんだね。

わたしが生まれてきたこの身体。誰が見ても美しい、可愛いと言えるほど良いつくりはしていないけど、でも29年も一緒に過ごしてきたんだから愛おしさもある。「わたし」が幸せになれるように、わたしが操ってあげなきゃいけないんだ。私の罪のために「わたし」を犠牲にするのは、ちょっとやめてみようかな。

ドストエフスキーの「罪と罰」は、いつかちゃんと読みたいです。

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