ブックレポート「今日におけるキリスト者の宣教」ジョン・ストット

2022年6月頃に書いたブックレポート、読みやすいように少し短縮しています
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当書は、宣教に関して、経験を深く積み、ローザンヌ誓約をリードしたジョン・ストットが、「宣教」を取り巻く概念に関しての考えをまとめた1975年に出された書籍の増補改訂版を基礎としている。その各章に対して、ジョン・ストットの弟子と言えるクリストファー・ライトが追加の解説・考察を行った章が、さらに加えられている。

1)当該書のポイント
宣教に関して、5つのポイントで考察を深めていっている。宣教、伝道、対話、救い、回心の順である。中心概念から実践へと進んでいっている。
1.       宣教
(ア) 伝道と社会的行動、または教会と社会とのかかわりから宣教というものの定義を試みている
(イ) 結論として、どちらか片方に偏るのではなく、統合的に考えなければいけない、ということを述べている
①      これは、特に当時にアメリカの福音派が、教えのみに偏っていたり、一方で社会改革運動に傾倒したりしてきた、という歴史を考えると、あえて言わなければいけなかった概念だと理解する。
2.       伝道
(ア) 福音というのは、何を意味するのか、ということの定義を試みている
(イ) 福音というのは、イエス・キリストを中心とした概念である、ということを論じている
①      1975年の初版で、どこまでの記述だったのかはわからないが、この時点で「ナラティブ」で把握するという事、ライトなどの解釈に繋がる福音理解が記述されていることが驚きである
3.       対話
(ア) 対話とは何かを、異なる相手(他宗教など)を想定した記述を通して、定義づけようとしている。具体的には、宗教包括主義に関して議論をしている
(イ) 排他主義に陥らない、かといって全面的な宗教包括主義に陥らない論旨を主張をしている
①      特に一般啓示と特別啓示を紐解くことに関してもふれられている。
②      宗教包括主義に関して、その中をさらに区分して論じることは、排他主義に陥る福音派の一部の流れと、宗教多元主義に陥るカトリックとの間で、決して折衷的ではない勇気のある提言だと思う。
4.       救い
(ア) 救いに含まれないと著者が考えるものは何か、と論じていくことで救いの中心を明確化しようとしている
(イ) 病気の癒し、解放の進学が語る概念を、救いの定義から取り除いていくことで、さばきから子とされることの自由、自己から奉仕への自由、腐敗から影響への解放、が救いであると語る
①      カリスマ運動、あるいは解放の神学に対してのメッセージでもあると思う。
5.       回心
(ア) 回心を主題として議論をしていくことを通じて、現在の教会の状態への問題提起と、キリスト教者であることと各人が所属する文化との関わりについての問題提起を行っている
(イ) この章に関しては、問題提起をおこなっており、明確な結論には至っていない

2)日本宣教への示唆
どの章も、日本宣教への示唆を強く含んでいる。特に3章、2章、5章に関して、表記の順に論じる。

問題意識
日本においてキリスト教は追い詰められている。
1950年代には、一定の信者を確保し、1960年代には増え始める兆しを見せていたのに、1970年頃を境に、全体として増えない状況に陥った。
本来ならば、一定の信者たちが、「クリスチャンであるとは何か」ということを自らの姿で見せる、という事が行われることによって、より普及をしていくフェーズであったはずのタイミングである。
そのタイミングで実際に起きたのは、クリスチャンの内輪もめであった。


第二章からの示唆
福音を伝えるということは、イエスが王である、ということを伝えることである。決して、回心者の数を競う、あるいは大規模伝道集会を開催して、そのすごさを誇る、という事ではない。回心につながるかどうかは、神の御心に委ねることである。
では、その福音とは何なのか、ということを、日本のクリスチャンの中で、どこまで本当に議論をされているだろうか。聖書解釈を、本当に突き詰めて考えているだろうか。

第二章で述べていることのメッセージは、昔ながらの宣教や、上からの活動ではなく、福音とは何かを深く考えないといけないということである。

そのうえで、福音を伝える、ということを一人一人が体現をしないといけない。それは「イエスが王である」ということを私は信じる、ということを体現するという事である。

第三章からの示唆
そして、「イエスが王である」ということを私が信じる、ということを体現するために、次に対話が必要となる。
筆者が言う通り、対話というのは、迎合ではない。「イエスが唯一の王である」ということを語り続けなくてはいけない。何も譲ってはいけないし、譲る必要性もない。ただ、その語るということは、受け手を理解し、受け手に対して誠実に語る、ということである。
果たして、我々、クリスチャンは日本の思想、日本の現実の慣行というのを、どれだけ理解しようとしてきただろうか。「日本は沼である」と語って、思考停止に陥っていないだろうか。
また、誠実に語り続ける、ということは、ノンクリスチャンの方々に対して、クリスチャンである、ということを様々な方法を通じて、伝え続けていく、ということである。どれだけ、ノンクリスチャンに向けての書籍、写真、メディア登場を日本のクリスチャンは行っているだろうか。
大乗仏教の発生によって、仏教は大きく変質をし、中国における再解釈を経て、日本で本来とは大きく異なるものになった。そして、日本において発展をした他力本願、即身成仏(死ねば仏)という概念は、本来は、キリスト教への親和性を持つ概念である。
日本において、神が示してくださっている一般啓示を、どこまで日本のクリスチャンは理解しようとしているだろうか。そもそも考えているだろうか。また、その一般啓示を、どういった特別啓示を通じて、「イエスが王である」ということへの焦点化へ繋げようとしているだろうか。

第五章からの示唆
上記の論点が見えてくると、「教会」という場が見えてくる。ただ、ここでも筆者が提示した同じ課題が出てくる。
今の日本の教会は、果たして外部から来て通いたい場所だろうか。

こういった論点を、我々は滅亡するという危機感を持って、議論をしなければいけないのだと思う。そして時間は残されていないのだと思う。
その問題意識・スピード感を持てているだろうか。内側の事しか見ていないのではないだろうか。

筆者が提示する絞り込んだ課題、ただ本質的な問題提起は、そのほぼ全てが日本のクリスチャンに対して、突きつけられている重い課題である。

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