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コミュニティ論

集団の中にいると、人に合わせなければいけない場面がたくさんある。

だから、1人とか2人とかで行動していた方が楽。


私は、こう考えています。

「コミュニティ」という言葉に対しても、かなり消極的です。


しかし、2つのことが合わさり、「コミュニティ」の良さを少しだけ理解するに至ったので、書き留めておきます。



きっかけ①

まず1つ目が、グランマモーゼス展に行って、グランマモーゼスの考え方に触れて、感じたこと。

グランマモーゼスは幼少期、小さな村で育ちました。

その村では住民が力を合わせて生活していたそうです。と言うのも、当時、暮らしは1人で成り立つものではなかったからです。

家を修理したり、蝋燭を作ったり、保存用のリンゴジャムを作ったり、全て住民同士が協力して行われていました。

この生活はもしかすると、デンマークのクリスチャニアという自治区での暮らしと似ているかもしれません。


私は今、とても便利な世の中にいて、1人でも生きていけると錯覚しています。ですが本来、人間は1人で生活できる生き物ではないのです。

何かあった時に助け合って、お互い支え合って生きる場所。それがコミュニティなのだ、と理解すると、無駄にあれこれ考えなくて済みそうです。



きっかけ②

2つ目が、佐々木常夫さんの本を読んで共感したこと。

”常にありのままの自分でいることができれば、人生楽です”

こんなような言葉が、書かれていました。

私は相手によって、カメレオンのように態度を変えます。

例えば、ボケキャラの人と話すときはツッコミ役を演じるし、会話のテンポが速い人と話すときは私も必死についていきます。面倒見の良い人の前では妹役を演じますし、上司の人と話すときは、しっかり者に見えるようにハキハキ喋ります。

一見コミュニケーション上手なように聞こえてしまうかもしれませんが、そんなことはありません。逆に、私はコミュニケーションがとても苦手なのです。

理由ははっきりしています。自分ではないキャラクターを演じているものの、演じきれていないからです。

会話の速いテンポに結局は頭がついていけていなくて、意味がわからない発言をしてしまったり、ツッコミどころ満載のツッコミを繰り返してしまったり。それで、会話が終わった後、ものすごく疲れるんです。

集団の中でも、自分が求められているだろうキャラを予測して演じることを、たまにしてしまいます。

自分から自分の首を絞めるのを、もうやめたい。

自分が必要としたときに、心で喋り、聞く。そうして自分の属するコミュニティを、自分の考え方を変えることで、自分にとってプラスになる場所にしたい。

これができれば、もしかすると、コミュニティってとても良いものなのかもしれません。

お・わ・り

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