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僕だけの湊ぼたん

湊ぼたんは、僕の彼女である。

湊ぼたんといっても、あのアイドルの湊ぼたんではない。映画の主役をやったり、歌を出したり、最近ユーチューブチャンネルを始めたあの湊ぼたんではない。

身長161cm、B87W57H84。ショートボブで童顔。名前も姿も全く同じだが、僕の中にだけ、湊ぼたんが別に存在しているのだ。

アイドルの湊ぼたんはファンから「みなぼた」という愛称で呼ばれているが、僕の中にいる湊ぼたんに愛称などはない。

アイドルの湊ぼたんの趣味はスケートで、好きなバンドはMY FIRST STORYで、好きな男性のタイプは落ち着きがある大人のひと。

だけど僕の中の湊ぼたんは無趣味で、音楽なんて聴かなくて、好きな男性のタイプはというと、僕だ。だって、僕の彼女なんだし。

アイドルの湊ぼたんは今夜『Mステ』に初出演だという。テレビの前で、僕の湊ぼたんと一緒に視た。僕の湊ぼたんは平面的だ。ネットで拾った画像を拡大印刷した紙が、僕の湊ぼたんだからだ。

紙の湊ぼたんは、他にも無数にこの部屋にいる。  

スクール水着の湊ぼたん、体操着の湊ぼたん、フリルスカートの湊ぼたん、『ソード・アート・オンライン』のアスナのコスプレの湊ぼたん、全裸に見えるコラ画像の湊ぼたん……。好きな湊ぼたんをいつでも好きな時に抱けるように、たくさん用意してあるのだ。

タモリとのんびりトークをするアイドルの湊ぼたんは、舌ったらずで可愛かった。サイリウムを振ったオタ観客どもから声援を浴びて、とても輝いていた。

だけど、僕の湊ぼたんのほうがずっと素敵だ。喋りも歌いもせず、ただ僕に抱かれるためだけに存在する、僕の湊ぼたんは、最高の女性だ。

「ねえ!いいかげんあなたも大人だから、お母さんも小言は言いたくないんだけど!」

ドアの向こうで、聞き飽きた文句が聞こえる。イヤホンの音量を最大にしているというのに聞こえるということは、相当な大声で怒鳴っているのだろう。時々その声が途切れることがあるが、いつものように、泣きじゃくる母を父が宥めているのだろう。仕方ないな。イヤホンを外す。

「なあ、ヒサシ。おまえ、湊ぼたんのファンなんだろう?働いて金を稼げば、湊ぼたんの写真集だって買えるし、今時のアイドルってのは握手会とかいうのよくやってるんだろ?いいか、金を稼げば、湊ぼたんに会えるんだぞ」

今度は父がまくしたてる。父はこういう方向性で僕に就職をせがむ。しかし、僕はアイドルの湊ぼたんに実際に会いたいとは思わない。だって、僕の部屋には、僕の湊ぼたんが何人もいるから。

「お友達はみんな就職したのよ!あなたが幼稚園の頃に仲の良かった朝日くんなんて、結婚して子供ができたって」

「いや、ママ。それは人それぞれだよ。ヒサシにはヒサシの生き方が……」  

朝日くん、か。もうどんな顔かも忘れてしまった。そういえばアイドルの湊ぼたんを初めて知ったのは、その朝日くんに借りた漫画雑誌の巻頭グラビアだったような気がする。

その頃はまだ、漫画を貸し借りするくらいの関係の友達がいた。だけどいつの間にか僕の前から消えた。いや、僕の方から去っていったのだろう。僕の湊ぼたん以外の人間は、心の底からどうでもいいと思っているから。アイドルの湊ぼたんも。

なのになぜ、ユーチューブでアイドルの湊ぼたんのメイク動画なんかを視ているのだろう。無職で金がないので写真集やCDなどは買えないが、部屋でネットでできる限りの情報を収集し、出演するテレビやラジオの番組は必ずチェックし、まとめサイトのグラビア画像はすべて保存している。

その1週間後のことだった。

まだ18歳のアイドルの湊ぼたんが喫煙している写真が、週刊誌に大々的に載った。

所属事務所は、しばらくの間は活動を自粛することをマスコミに報告した。予定されていた握手会は中止、レギュラーのラジオ番組の出演やユーチューブの投稿も、しばらく休むこととなった。

僕はアイドルの湊ぼたんがだんだん憎くなった。清楚だと信じていたのに、未成年喫煙などというくだらない行為をする下品な女だったなんて。その点、僕の湊ぼたんは絶対に裏切らない。いつも可愛くて素敵で、いつも僕のことを愛してくれる。    

アイドルの湊ぼたんがいない間、僕は僕の湊ぼたんと何度もハグやキスをして、セックスの真似事もした。僕の湊ぼたんは、何をしても壊れることはない。

その夜も興じていたら、突然にスマホの着信音が鳴った。もう長いあいだ誰からもLINEなど来てはいないのにと画面を開くと、朝日くんからだった。

「もう何年も君に会ってないし、言える立場じゃないかもしれないけどさ、親御さんから聞いたよ。オレ、今でもヒサシを友達と思ってるから言うけど、今のままじゃダメだよ」

このような文面とともに、『ドラゴンボール』の悟空のスタンプが送信されていた。「でぇじょうぶ。ドラゴンボールで生き返れる」、悟空は笑顔でそう言っていた。

でも、僕はわかっている。朝日くんの僕は死んだ。母の僕は死んだ。父の僕は死んだ。誰かが一生懸命にドラゴンボールを7つ集めても、もう生き返れない。

謹慎が解け、何事もなかったかのように、アイドルの湊ぼたんは再び表舞台に出た。今月からは『ヒルナンデス!』の水曜日のレギュラーなのだそうだ。

オードリーの春日を前にしても物怖じせずに弄りまくるアイドルの湊ぼたんに、なんの魅力も感じずに、僕は僕の湊ぼたんをただ愛撫した。

夜は『水曜日のダウンタウン』のパネラーとして出演。「駅前のコンビニには駐車場がない説」などという、どうでもいい面白くもないことを言って浜田にツッコまれる湊ぼたんを、僕は心の底から憎んで、僕の湊ぼたんと無言で会話した。

相変わらず、両親は揉めている。離婚や勘当も視野に入れているようだ。僕の家は裕福とはいえないが、父は大手企業の役職に就いているので、それなりには潤っている。高校卒業後に何もしなくても特に咎められず、26歳にしてバイト経験すらないニートの僕を養える程度には。

そう信じていた。

3人家族で、4LDKの一軒家。ガレージも庭もあって、立派な家。

だが、その立派な家は、たった一度の父のタバコの不始末のせいで、跡形もなくなってしまった。

救急隊員がすぐに駆け付けてきたおかげで、2階で寝ていた僕は軽い火傷を負っただけだった。1階の火元の近くにいた母は捻挫もしているらしく、火元を作った父は重症らしいが、命に別状はないと医者が言った。

火災保険に入っていたため、金銭的な心配は要らないようである。家の代替も大人が勝手になんとかしてくれて、しばらくは近くの公営住宅で暮らすこととなった。よくわからないが、このような事情の場合は、優先的に市の援助を受けられるらしい。

だが、僕にとってはそんなことはどうでもよかった。僕の部屋に住んで生きていた、僕の湊ぼたんが死んだ。僕の湊ぼたんが、すべて燃やされてしまった。

公営住宅で割り振られた部屋は、1DKだった。

6畳間に家族3人、新しく買った布団で川の字になって寝た。まるで幼少期に戻ったような感覚だった。もともと昔は、父と母に挟まれて、こうして眠っていたはずだ。

もう26歳なのに、僕はなぜか泣いた。

公営住宅の暮らしは、2年ほど続いた。狭い家だったが、近所の人たちともそれなりに仲良くできた。

黒いスーツに身を包んだ僕は、駅のトイレで再び、今日の会社面接で言おうとしていることを頭の中で暗唱した。忘れないように。忘れないように。

集中しようとしているのに、間が悪くスマホの着信音が鳴った。おっと危ない。面接前に気づいて良かった。マナーモードにしておかなきゃ。多くのひとは10代後半から20代前半にかけてのうちにこういうことを学んでいるのだろうけど、僕は28歳になったというのにまだまだだ。

しかし、それまで何年もニートだった息子が就職活動中だからといって、面接前に毎回のごとく連絡をよこすというのは過保護というか……、などと思っていたら、LINEの主は母でも父でも、朝日くんでもなく、朝日くんの母であった。

「こんにちは朝日の母です朝日と仲良くしてくれてありがとう。昨日、朝日は、息を引きとりました。過労が原因です。子供ができて、少しでも稼ごうと、サービス残業が祟ったようでして、無理をするなとはひ頃から言ってたのに葬儀は近親者のみで済ますます。あなたは特殊な事情があるようですし、息子のスマホにロックかかってなかったので、こうしてLINEのみでの報告であることおゆるしください」

ところどころ変換ミスがある。気が気ではないからなのか、単純にフリック入力に慣れていないのかはわからない。朝日くんの母ってどんな人だっけ。朝日くんの顔も思い出せないのに、幼い頃に何度か見ただけの朝日くんの母の顔など思い出せるわけがない。

もういやだ。

そんな気分で、スマホをホーム画面へと戻した。ホーム画面には最新のニュースがスクロールされる。

今日の株価。よしいいぞ。僕にはどうでもいい情報だ。次。またまた政治家の失言か。これもいい。僕にはどうでもいい。次。イケメン俳優の相次ぐ不倫について独自のルートで芸能関係者に聞きました。そうそう、そういうどうでもいい上にろくに信用できない感じのがいい。次。湊ぼたん自殺未遂。

9日の午前10時ごろ、東京都内のマンションのベランダで、泣き喚きながら飛び降りようとしている女性がいると通報が入った。警視庁の調べでは、女性はタレント・ユーチューバーなどとして活動する湊ぼたん(24)。同居していた男性の痴情のもつれから口論に発展し、「死んでやる」とベランダから身を乗り出したという。

以上が、新聞に小さく載った欄の全文だ。2年前なら、こんな事件があれば一面に載っていただろう。

だけどアイドルの湊ぼたんはその後、年齢詐称が発覚したり、既婚者であるお笑い芸人とのお泊まりデートをフライデーされたり、中学生時代にいじめグループの首領であったことを同級生の人気ツイキャス主に暴露されたことなどで、著しく人気を落としていた。

1st写真集は23万部も売れたのに2nd以降は数千部単位で、CDのリリースは3枚目を最後に止まり、バラエティ番組にも呼ばれなくなった。

かつては数百万再生が当たり前だったユーチューブも今は下火になり、それまでのイメージを捨てて、自らを年齢詐称芸人や元いじめっこアイドルなどと称したりとスキャンダルを逆手に取ったキャラクターへと方向転換を計るも、バッドボタンが増えるのみだった。もちろん僕も押した。

僕の湊ぼたんが死んでも、僕はアイドルの湊ぼたんの情報を収集していたのに、アイドルの湊ぼたんは僕をどこまでも裏切って傷つけた。今の落ちぶれようは当然の報いだ。僕の湊ぼたんじゃなくて、おまえが死ねば良かったのに。「死んでやる」とおまえが言ったんだろう。じゃあ死ねば良かったのに。

その日の面接は、広告の会社だった。広告の会社などと求人誌ではかっこつけて書いていたが、実際に話を聞いてみると、いわゆる風俗情報誌を出版しているエロ産業らしい。

そういった会社だからなのかどうかはわからないが、面接はかなり砕けた雰囲気だった。履歴書をざっと読まれた後、好きなアイドルは誰かと訊かれた。

「……湊ぼたん、です」 

僕の湊ぼたんの話ではなく、アイドルの湊ぼたんの話をした。

『Mステ』の初登場時には大物のタモリを前にちゃんと話せるかどうか心配だったが気に入ってもらえたみたいで安心したとか、『ヒルナンデス』でのオードリーの春日とのざっくばらんな掛け合いが好きだったとか、1st写真集は情報解禁直後に速攻でAmazonで予約したとか、未成年喫煙での謹慎は可哀想だったとか、お泊まりデートは単純に一緒にゲームをしていただけらしいからいいじゃないかとか、いじめは過去のことだから今は関係ないとか、全く思ってもいなかったことをべらべらと話した。

自分でも驚くほどに、いけしゃあしゃあと話せた。

採用の通知が来たのは、その翌日だった。ふつう、企業が正社員を選考する際には、最低でも1週間はかかるという。よほど切羽詰まっているのだろうか。

「今日は、お祝いだな」

バッテラ寿司を平らげて、父が言う。僕はただ、曖昧に頷いた。

「ヒサシは、やればできる子なのよ」

イクラを箸で突きながら、母が笑う。僕はまた、曖昧に頷く。

はっきりいえば、28歳にして初めて出る社会に希望なんてない。僕の湊ぼたんがいない世界なんていらない。

その夜、夢の中に朝日くんが出てきた。なにやらカードを持っている。そうだ、思い出した。『ドラゴンボール』が好きな朝日くんは、カードダスを熱心に集めていた。

僕はどうやら生き返れた。ドラゴンボールがなくても、僕の湊ぼたんの命と引き換えに。朝日くんは、カードダスを何枚も遺して死んだ。ドラゴンボールは現実には存在しないから、朝日くんは生き返らない。

目が覚めた。始業は9時。電車で4駅。もう行かなきゃ。今日も匿名掲示板にアイドルの湊ぼたんの根も葉もない悪口を書き込んだ。以前は勢いのあったスレッドも、今やすべて僕の自作自演コメントで埋め尽くされている。

アイドルの湊ぼたんのユーチューブはいつの間にか凍結されていた。所属事務所のプロフィールからも外され、公式ブログもTwitterアカウントも削除された。       

会社づとめは予想どおり僕には向いておらず、営業をサボってブックオフで立ち読みをする日々が続いた。 

ある日ふと100円コーナーに目をやると、アイドルの湊ぼたんの1st写真集が7冊、ずらりと並んでいた。

僕はそれをぜんぶ買い占めて、駅のトイレでカッターで切り刻んで、何度も何度もアイドルの湊ぼたんを殺した。

僕の湊ぼたんを生き返らせるために。

サウナはたのしい。