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ねこ100匹ぐらい被ってる

いまだに「いい子だね」とか「優しいね」とか言われると身動きがとれなくなるときがある。
ほんとはいい子でも優しくもないのに。

学生の頃、学校ではこの子は「こういう子」だからこういうふうに指導する、みたいに人によってあつかいが異なっていた。優等生とかスポーツ得意で目立つ子とか勉強できないお調子者、目立たない子とか色んなラベルがあってそれを先生からぺたぺた貼られそれにしたがってみんな動く。

私は小学校高学年くらいから今の自分では考えられないけど先生から「優等生」としてのラベルを貼られた。そして周りからそれにならった扱いを受けていたように思う。

「優等生だから」優等生はいつもみんなより少し先をリードしていて先生に褒められてみんなのお手本になるような存在でなくてはならない。その行動枠を外れる動きを絶対にしてはいけない。もしそこからはずれたら「優秀だと思ってたけど大したことないね」「そんな子だとは思わなかった」と失望した顔をされるのが怖くてそれがほとんど強迫観念のようになっていった。

先生の見ていることを知っているけど気づいてないふりをしてわざと優等生的な振る舞いをしたこともある。今から考えるととても嫌な子どもです。

こうした優等生でいなければならないという強迫観念は学校にいるときだけでなく、家庭にいるときもはたらいた。
「親の期待にこたえなければならない。」「親のがっかりした顔を見たくない。」


そうした呪縛は大人になった今でも続いている。今の私は「優等生」としての立場から完全に外れてむしろその正反対の底辺にいる。優等生としての立場から外れられたから楽になれるかというとそうでもない。学生の間はいわゆる「優等生」でいられたけど社会では「優等生」ではいられなかった。
「親の期待に応えられなかった。」「親を失望させている。」という思いがずっとついてまわる。

学生の頃、勉強はできないしいつも先生から怒られてるけどどこか愛嬌があってなんだかんだで可愛がられてる「やんちゃな男の子」がずっと羨ましかった。
私が先生から名字+さん付で呼ばれて褒められはするもののどこかよそよそしく話しかけられるのに対し、彼らは下の名前かあだ名で呼ばれていじられている。

最初からできないとか悪いイメージがあれば何をしても人を失望させることもない。むしろ良いことをしたときに印象はよくなる。

ヒールが実は悪役を演じていたことが判明してほんとうはいい奴だったことがわかったときその印象は跳ね上がる。ヒールってつくづく美味しい役回りだと思う。

ある程度人と過ごしているとこの人は私がこういう風なリアクションをとったら喜ぶんだなってことがわかってくる。
声のトーン、仕草、表情であ、いまこういう反応や行動が求められてるってことが瞬時にわかってしまう。

「〇〇は甘えん坊だから」「〇〇は寂しがり屋だから」「〇〇はわがままだねえ」「〇〇は自分がいないと何もできないから」「しょうがないなあ」
と私にいいつつもみなどこかうれしそうにしている。

だから私はねこを100匹くらい被って演じる。
わざとオーバーにリアクションしたり、今こうして欲しいんだなって求められてる振る舞いをわざと強化してする。そうしなかったとき相手ががっかりする顔を見たくないから。


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