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さよなら2020年

この投稿はコラムでも考察でもない、単なる日記であり、2020年の負の側面を吐露しただけの散文です。どうか、酒の肴程度に軽く読んでもらえると嬉しいです。

2020年は辛い1年間になってしまった。タイムマシンに乗って好きな過去に何度でも戻っていいと言われても、2020年には戻りたいとはまず思わない、そのくらいしんどい日常だった。

今年はじめてチャレンジして成功を収めて大幅なゲインを得られたこともあるのだけど、悲しいことに1年の間に蓄積した閉塞感、抑圧、プレッシャー、憤りなどの負のエネルギーがそれをはるかに上回ってしまった。

コロナ禍前夜に我が家が迎えた危機

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2019年末、息子が体調を崩した。保育園1年目の冬ということもあり、毎月のように発熱していたので、またじきに良くなるだろうと思っていたら、気がつくと6日間ほど熱が上がったり下がったりを繰り返していていた。

医者にも2度かかっており、わりと元気だし風邪の診断だったので言う通りにしていたが、12月も29日になっていたので、年末年始の安心を得るためにもう一度最寄りの大きな総合病院へ受診することにした。

家族全員で行くのもなんなんで、娘と自分は公園に行って遊びながら病院へ行った妻と息子の帰りを待つことにした。

しばらくして妻から連絡が入った。今すぐ家に帰って荷物を準備してほしい、とのことだった。まさかとは思っていたが、悪い予感が当たってしまった。

息子の診断結果は川崎病だった。そのまま即時入院となったため、着替えや諸々が必要になったのだ。

この川崎病は調べてもらうとわかるのだけど、原因不明の血液の疾患で早期に発見する必要があり、治療開始が遅れるとのちのち重篤な後遺症が残る可能性が高い、などとかなりヘビーなことが書いてある。

「冗談じゃねえぞ..」なんとか平静を装いながら娘を連れて急いで帰宅し、準備を整え、ありったけの荷物を持って娘とともにタクシーで病院へ向かった。

病院へ着き、息子のいる病棟へ向かう。どうやらゾロゾロとフロアを歩くことができないようで、妻と交代してカードを受け取って娘を預けて病室へと向かった。

病室のケージのようなベッドに一人、息子がぽつんとしていた。声をかけると、もう朝までのような元気はなく、微かに微笑んで力のない声で「パパ..」と発した。

息子のあまりの変容っぷりに耐えきれず、ボロボロと泣いてしまった。そして、「ごめんね..」と思わず言葉に出してしまった。

息子は元々低体重で、ICU とGCU にしばらくいたため娘と一緒に退院できなかったこともあり、何故この子ばかりこんな目にあわなければならないのだろうというやり場のない気持ちと、なにより無力な親を許してほしかった。

動揺してばかりの情けない父親とは裏腹に、妻は気丈だった。淡々と息子のことについて説明をしてくれた。今元気がないのは、点滴の注射や諸々の処置·治療によるもので病気の進行とかではないようだった。

その日から大晦日まで、昼間は私が病院へ行き、夜に交代、そこから妻が息子に付き添って寝泊まりして過ごした。

不幸中の幸いか、早期治療が効を奏し、息子はみるみる回復していった。こんな年末にも関わらず、元気に息子の面倒を見てくれた看護師さんたちには本当に頭が上がらなかった。

手の甲から点滴しているので痛々しい包帯を巻いていたのだけど、アンパンマンのイラストを描いてくれたりしていた。

医療従事者の方々の懐の深さを目の当たりにすると、普段仕事のつまらないことなんかでイライラしている自分の小ささに恥ずかしくなる。

妻の進言もあり、大晦日と元旦は私の実家へ行った。回復傾向だったとはいえまだ油断できないタイミングだったので全く気がすすまなかったが、娘が少しでも寂しくないようにとそうすることにした。

大晦日は例年、初詣に出掛けて平和にのんびり過ごしたり、カウントダウンライブに出演したり、新年を迎えるにあたっての特別な日だったが、今年は家族バラバラの大晦日を過ごすことになった。

こどもたちが誕生してから、サウナに行く回数が激減して、それについて少しずつ少しずつなんとも感じなくなってしまっていた頃に更に追い討ちとなった。

気晴らしにツイッターを覗いたりしていたけど、頭には何も入ってこず、楽しそうに正月サウナ旅行に勤しむ大勢の人達の様子が別次元の世界で起こっていることのようだった。

しらかばスポーツの活動が無かったら、もう今頃ツイッターなんてやってなかったように思う。しらかばスポーツのメンバーには本当に感謝してもしきれない。

元旦の朝、妻から連絡があった。息子は順調に回復していて翌朝検査に問題が無ければ退院できることになった。

妻とお互いを励ましあいながら1日を過ごし、1月2日の夕方に無事家族で再会することができた。

即時入院と治療の判断、そして年末年始にも関わらず息子を看てくれた医療従事者の皆さんに本当に感謝している。

ほっとしたのも束の間、気がつくと冬休みも終わろうとしていた。冬休み期間だったから良かったものの、これが仕事の繁忙期に起こっていたらと思うとゾッとした。と同時に腹をくくった。次こどもたちの身に何かおきたときは迷わず仕事を辞よう。その後のことなんかどうにでもできるし、どうにでもなる。

国中がパニックになるより一足早く、我が家では危機を乗り切っていた。しかし、この年始のバタバタが完全に1年間の方向性を示すことになっていたと年末の今改めて思う。

順調に見えたしらかばスポーツの2020

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1月末頃、しらかばスポーツのメンバーで集まった。3月に控えてる大規模なイベントに備えての準備のためだ。

この時はまだ、まさか緊急事態宣言みたいなことが起こるなんて夢にも思っていなかった。諸々終えてメンバー皆で新大久保の町中華で軽く打ち上げたのだけど期待に反してめちゃくちゃ旨かった。振り返ると、2020年に自分が友人と唯一した外食だった。

2月の半ば、昭島のアウトドアヴィレッジでのアウトドアサウナミーティングにしらかばスポーツでウィスキング要員として参加した。まだこの時はギリギリ対岸の火事の雰囲気があった。

アウトドアサウナイベントの馴染みのメンバーやお冷やさん、タキオンさんたちとも会えてすごく楽しかったし、まだこの時点では今年はしらかばスポーツの躍進を信じて疑わなかった。

何故なら東京オリンピックにどうにか皆で潜り込むつもりだったのだから.. 

しかしながら、3月の大規模イベントの中止にも怯まず、水面下でどんどん開拓してくれていた、リーダーのポニョちゃん、万平さんを中心としたメンバーたちには足を向けられない。彼らに出会えて本当に良かったと思う。

かるまるのウィスキングイベントでの仲間との再会

3月から世間も仕事場も事態はどんどん急変していった。マスク、アルコール、ティッシュ、トイレットペーパーが品切になって、街から姿を消した。キッチンペーパーまで無くなってたのには流石に笑った。 

4月に入った途端、仕事の面での状況も一変した。新体制となったごたつき、社内の制度や規則の変更と整備、新入社員のケア..ただでさえ毎年忙しい第1Q なのに今年は色々想定外なことが増えて心身が削られていった。

こういうとき、サウナが助けてくれそうなものだけど全くそういう気分にも発想にもなれなかった。その証拠に4月から5月までの2ヶ月間は一回もサウナに入っていない。

この頃は、すっかり心からサウナが抜け落ちていたように思う。ただただ家族と固まって過ごしたという記憶しかない。嫌なことだらけの仕事については何を捌いていたかも思い出せない。 

でも、そんな自分とは裏腹にサウナはどんどんブームを加速させ、新しいプライベートサウナがどんどん誕生していった。自分は自分自身の自我を保ち、家族を守るだけで精一杯だった。

生きるだけで精一杯なのに、他の人はあれこれ新しい試みに着手している様を見て、これも自分の人間としてのキャパシティの限界なんだなと悟ったし、世間のゴタゴタの濁流に流され、どんどん自分とサウナを取り巻く熱量みたいなものの間に溝が深まっていくのを実感した。

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第2Qになっても状況は変わらなかった。せめてもの反抗で、中止となったオリンピック休みの時に石垣島へ行った。

ギリギリのところまで夫婦で悩んだけれども、結果的には何も起こらず、世間の圧力に負けなくて良かったと思っている。

家族の笑顔を見るために生きてる訳であって、顔も知らないような人間たちに神経を磨り減らして生きていてもしょうがない。発言に責任を負うこともしないようなベッドルームから発信されるインスタントな正義なんかに屈する必要はないのだ。

日本の最南端?最西端?のサウナにも入れて良かった。しっかり熱くて構造も面白かったし、水風呂もしっかり冷たかった。久しぶりに生きた心地がした4日間だった。

8月から12月までの間も、ただひたすら心を無にして仕事を捌いていた。歳を取れば取るほど、ポジションは変わらずとも責任だけはどんどん重くなるのは本当に不思議だ。

なぜこんな無味乾燥で辛い日常が続くのかと思ったが、今年は本来到来するはずのアウトドアサウナイベントシーズンに全く参加することが出来ていないからだと気がついた。

日本サウナ祭り、サウナキャンプフェスティバル、弦巻の秋祭りをはじめとする充実したイベントたち..9月から11月は怒涛のラッシュを迎えるはずだったのだ。(そういう意味ではサウナキャンプデイに夏至祭、NFだってそうだ。)これらのサウナイベントから如何に彩りと活力を貰っていたのかを強烈に実感した。 

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心身ともにすっかり弱りきっていた10月、池袋のかるまるで開催されていたヴィヒタ祭りの一環でしらかばスポーツとしてウィスキングイベントをさせてもらえることになった。

実にメンバーとは8ヶ月ぶりの再会だった。長いようで短いような不思議な感覚だった。

気の合う仲間たちと過ごす時間ってこんなに楽しいものだったのか、ウィスキングってこんなに充実感が得られるものだったのかと忘れていた感覚が蘇った。この日休憩の時に飲んだヤクマンの旨さはずっと忘れないだろう。かるまるの皆さん、万平さん、素敵な機会をありがとうございました。

自己を取り戻すきっかけになった万平蒸祭

googleフォトが「1年前のあの日」みたいな写真を唐突に見せてくる。楽しそうにサウナに入ったり遠征なんかしている様子がたくさん写っていて、明らかに自分が撮影したものなのに別の人の過去を見せられているような気分になっていた。

11月半ば、「万平蒸祭inホテルマウント富士」にしらかばスポーツとして自分も参加させてもらえることになって、そんな浮世離れした楽しそうなイベントに参加しちゃっていいのだろうか?とさえ思うようになってしまっていた。

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しかし、1泊2日でスタッフとして参加させてもらい、しらかばスポーツのメンバー全員集合できたこと、アウトドアサウナイベントで馴染みの盟友たちの多くに9か月振りに会えたことにより、自分の中で消えかけていた灯火が再燃した。

色々な諸事情で万平さんの車に同乗させてもらって2人で蒸祭会場へ向かったのだけど、道中くだらない話をしまくってめちゃくちゃ楽しかった。サウナの話、ウィスキングの話、サウナ界隈の話、中高生の頃聴いていた音楽の話、ファッションの話、釣りの話…この2日間のおかげで失っていた自分の感覚を完全に取り戻すことができ、11月中旬から12月下旬まで、この日に蓄えたパワーで駆け抜けてなんとか切り抜けた。

さよなら2020年

なんとか自己のバランスを取り戻したところで、結局この1年間は個人としては何にもカタチにすることが出来なかった。アンテナの感度は筋力と同じで鍛えなければ瞬時に鈍るということを痛いほど痛感した。

このまま古参の老害化だけが進み、感覚が陳腐化してしまうのだけは御免だ。それにはまず逃げずに自分のアンテナの感度が鈍化している事実を受け止め、鍛え直すことから始めなければならないだろう。

少しでも何かしなければという焦燥感から、サウナイキタイアドベントカレンダーに見切り発車で応募した。大変ありがたいことに、3年連続で書かせてもらえることになったはいいが、結果的には不完全燃焼に終わった。

単純に、広げた風呂敷にたいして準備不足だったのと、いつまでもネガティブな感情を引きずったままだったために文章にそれが反映してしまったことが原因だった。

2020年はnoteを1つとこのアドベントだけという不甲斐ない結果になってしまったけど、この事実をしっかり受け止め、2021年は自分に対し過度な期待はせず、着実に駒を進められるようにしていこうと思っている。

2020年はとことん負の感情を背負ってしまった。その事実をしっかり認識したうえで、この場で吐ききり、置き去って前に進みたい。2021年には持ち越さないで気持ちを切り替えていきたい。

2020年の大晦日、家族全員で元気に年越しそばを食べることができた。妻は今、自分の横でゴロゴロして「絶対に笑ってはいけない大貧民 go toラスベガス」を見ている。1年前の状況とは全く違う平穏な年末を取り戻した。まだまだ油断はならない日々が続きそうだが、2020年は守らなければならないものをなんとか守りきることはできた。

自分にとっては耐え忍ぶ1年になったわけだけど、十人十色で誰もが様々な問題や壁、波を乗り越えて新年を迎えていると思う。願わくば、サウナに関わる全ての人にとって向かい風から追い風になるような状況が訪れることを祈念して2020年と決別したい。

さよなら2020年。




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