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新宿歌舞伎町の取引先。

歌舞伎町は18歳のころ東京で大学浪人していた時に、ゴールデン街に行って水割り1杯5000円でぼったくられて飲まされた苦い思い出のある場所です笑。昔は飲みに行ったことも多々ありました。
そういうお酒に関係する思い出がある場所なんですが、私にとっては歌舞伎町の台湾華僑の方々との出会いが大きな転機になりました。

歌舞伎町のど真ん中にあるそのオフィスに飛び込みで行った事があります。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と自分を奮い立たせて向かったのですが笑、流石にノックしてオフィスに入室する時は怯みました。
歌舞伎町の雑居ビルの屋上にある、プレハブのオフィスでしたし、怖い人が出てきたら、すぐに間違いましたと言って、逃げようと思っていましたから、、笑

しかし、恐れと、予想に反してとても清潔で感じのいい方々がおられて、「よくこんなところに飛び込みで来たね。どのようなご用件ですか?あなたが初めて飛び込みの方だと思います。」と。笑

そこから要件を伝えたところ、そこから多々ご尽力頂き、不動産の取引に繋がったという訳なんです。
今考えてみれば歌舞伎町にある、台湾華僑の共同組合で、考えてみればすごくしっかりした組織であることは間違いないのですが、何せあのプレハブのオフィスでしたから笑

そして、それをきっかけに何度も取引する事になり、ああ、あの時怯まなくて良かったと改めて思うのと、人と人との関係は素晴らしいなあと感慨深く、そのビルを見るたびに思い出します。

歌舞伎町の台湾華僑の歴史はとても興味深くて、その後こんな本が出版されました。この本の中にもこの、プレハブオフィスの話が出てきますよ。

台湾人の歌舞伎町――新宿、もうひとつの戦後史 https://amzn.asia/d/8gmCJ1Z

Amazonの説明文つけておきます。

らんぶる〉も〈スカラ座〉も〈風林会館〉も
台湾人がつくった――
終戦までの50年間、日本の統治下にあった台湾。
8万人あまりが“日本兵"として戦争に駆り出され、戦前から日本に“内地留学"をしていた者も多くいた。
戦後、今度は一転、“外国人"として裸一貫で放り出された台湾人は
やがて駅前のヤミ市で財をなし、焼け野原に新たに構想された興行街・歌舞伎町を目指した――
初めて明らかにされる、貴重な時代証言

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