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実は隣にいたアオハル

人は人と出会う。
一人暮らしで一生家の中に引きこもっているのなら話は変わってくるが、多分この記事で扱う大体の人は夏休みとか感染症の世界的流行が無ければ太陽が燦々と照らす外に出て学校や職場に行くのだ。
そしたら、その地域が余程過疎っていたりしなければ学舎のクラスメイトや仕事場の同僚はいるだろう。
で、本題はここから。
いつか別れの日がくる。
どれだけ仲が良くても、一緒にいても同じ時間を過ごしていても。
それでも別れの時は来るのだ。
別に仲違いとか疎遠とかじゃなくても人間が生物の枠を超えない限り寿命があるのだから察せずともそういうことである。
学校は卒業すれば会う人の方が少なくなり、同じ地域にずっと住むなら別だが上京したり引っ越しすれば一気にリセットされるのだ。
基本的にダイパのエイパム等を除いて相棒のピカチュウ以外は他の地方には連れて行かないサトシのように。
あれだけ同じ時を過ごしていたのに、
その大切さを当時は発見しづらい何気ない日々の授業や、チーム一丸となってアツく熱狂した部活など同じ箱に集まって楽しくおしゃべりしていたのにも関わらず。
別れはとてもあっさりだ、卒業したら会う機会はグッと減るから。
特に義務教育期間は長かった。
地元の小中学校での思い出なんか総計9年間もある。
中学受験や途中で引っ越しをしなければ9年だ9年。
平均寿命が81年だとしたら9年とは、とてつもなく長い期間を占めている。
なんと9分の1。
人生のスタートラインであってそれでいて長いから思い入れが強くなるのも仕方ないだろう。
しかも人生の体感時間は歳を取れば取るほど徐々に短くなると言われているのだから、そう考えると義務教育の期間は過ごした年月よりも占める幅が大きくなりそうである。
でも、それでも一度卒業してしまえば成人式や同窓会を経て機会が少なくなっていき、個人的な間柄を保てなければ自然消滅真っしぐら。
残された記録は卒アルや当時の教科書とかプリントとかプリクラだけ。
行事の写真やCDを買わなければ意外と後世に残らないものである。
大人顔負けのギチギチな子供王国でのスクールカーストだってあったかもしれないのに。
無限に日常が続くと錯覚していた毎日だって古く色褪せた時空の彼方へ置き去りになり、毎日起立礼着生をしていた教室は後輩にあたる名前すら知らない新時代の誰かが使っている。
クーラーが無い扇風機だけで生き抜いた夏の灼熱教室も、チープなヒーターしかない冬限定な極寒の銀世界もあの学舎という城山で学んだじゃあないか。
今になって想っても遅い青春。
空だけは当時と同じ青色を残して。

実はキラキラしてたアオハル、いつも隣にいたんだなって。

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