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コミュ障の父は私の誕生日に結婚を見届けて旅立った

私の父はコミュ障だ。父が家族以外の誰かと話しているのをほぼ見たことがない。父が友達と出かけるなんて話を聞いたことがないし、家族である母と私ともそんなに会話をした覚えがない。そもそも家にいるのが週1回あるかないか程度。私は小学校に入り友達の話を聞いて、毎日父親が家にいることを知った。


父は家に居るときはいつも本を読んでいて、たばこを吸っていた。私はたばこの臭いが苦手だった。小学校から帰って玄関を開けたとき、ツンとしたたばこの臭いがする。それは父が家に居る合図で、今日は父が居るのかとがっがりした。


うちはいわゆる裕福な家庭ではなかった。◯◯荘という古びたアパートに住んでいる小学生の私は、自分の家が恥ずかしくてたまらなかった。このアパートに住んでいる自分の姿を見られたくなくて、アパートの階段下の駐輪場から外を覗いて、友達がいないことを確認してから外に出た。


こんな家に子供を住まわせる稼ぎの少ない父と、能天気に暮らす母が憎たらしかった。今から思えば大学まで出してくれたのだから、貧乏ではないし感謝すべきなのだけど、その頃の私には理解できなかった。


父は映写技師で吉祥寺駅前の映画館に勤めていた。映写技師はお試しで、一般公開前に無観客で映画を上映する。父は私にそのお試し映画を見せるのが好きだった。映写室には父一人、客席には私一人。そんな不思議な空間の中で、一つの映画を共有するのが親子の数少ない時間だった。


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私が高校生になる頃には、家で父の姿を見かけることはなくなった。私が高校1年生になったとき、父の母、つまり私の祖母が亡くなった。父は高校時代に父、私の祖父を亡くし、経済的な事情から大学進学を諦めたらしい。父は裁判官を目指していたようだ。祖母は優秀だった父のことが自慢で、大学さえ行かせてあげれば出世していたとよく話していた。


父は7人の姉がいて、母はよく姉や祖母から嫌味を言われていた。母は父の9つ年上で、父の家族から結婚をよく思われていなかったらしい。祖母の葬儀の日も母は姉たちからさんざん嫌味を言われ、葬儀の途中で私を連れタクシーに乗りこんだ。タクシーを追いかける父の姿を最後に、しばらく父を見ることはなかった。


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20代になって、数年に一度父の映画館に足を運んだ。父は私の顔を見ると少し嬉しそうだった。一度だけ父に飲みにいこうと誘われたことがあった。あまり乗り気ではなかったが、これも親孝行のひとつだと思いつきあった。そのときの父は仕事でリストラ係を担っていたらしく、つらそうにしていた。


父は人付き合いは苦手だが、優しい人だったので、ストレスも相当にたまっていたのだろう。その日はカラオケまでいった。人生で父とお酒を飲んで、カラオケまでいったのはこの1日だけだ。


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社会人になって母の生活は私が支えていた。30代になって、今の夫と同棲を始め、家庭への責任を取らない父に怒りを覚えていた。母の生活費を請求するため、7年ぶりに父のアパートを訪ねた。久しぶりに見た父は目の右上に大きなコブのようなデキモノがあり、普通の見かけではなかった。


私はそんなことはお構いなしに怒りをぶつけた。父は申し訳なさそうにしながらなんとか工面すると約束した。帰り道、西荻窪駅まで私を送って、「ご飯でもどうか」と言った。私は怒りが収まらなくて冷たく断った。これが私と父の最後の時間だ。


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1ヶ月後、私は結婚を決めた。誕生日に夫の故郷めぐりをして、ちょっといいイタリアンレストランにいった帰りの車でプロポーズをしてもらった。誰かにプロポーズをしてもらうのは初めてだったし、正しい家庭の姿を知らない私が結婚して良いものか戸惑いもあったが、嬉しくて即オッケーした。よくわからない涙が止まらなくて、夫と二人で泣きじゃくった。


次の日の朝、浮かれた私はコンビニにゼクシーを買いにいった。家に帰ってページをめくり始めたとき、見知らぬ番号から携帯がなった。「武蔵野警察署です。お父さんが亡くなりました」警察からだった。


慌てて母に連絡し、駅で待ち合わせをした。母は小さな体を震わせていた。母と手をつないで警察署に向かった。母と手をつなぐなんて何十年ぶりだろう。父の死因は肺炎だった。ずっと体調が悪かったらしい。映画館をやめ、新聞配達の仕事をしていたという。


そんな父は、私がプロポーズを受けているころ、そっと一人息をひきとった。なんの知らせかわからないが、私の結婚を見届けて旅立ったのだ。


父が亡くなったのは8年前の今日、私の誕生日。私の誕生日に、しかも結婚が決まった日に旅立つなんて、父はどういうつもりなんだ。誕生日も結婚もおめでとうと言ってくれなかった父はやっぱりコミュ障だ。大した友人もいない、お金に苦労して、娘と会うこともない父の人生は幸せだったのだろうか。


父が亡くなってから父の部屋を整理していたある日、小学生の私が父に送った父の日のカードが見つかった。父が私を愛してくれたことを私はずっと知っている。家族のかたちはひとつじゃない。この不器用で不自然な家族を愛しながら私はこれからも生きていく。

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