読書感想文#4 自分の言葉ってなんだよ/古田 徹也『言葉の魂の哲学』

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軽い言葉は使いたくないな~なんて思いつつ、学生の時分は気づけばそもそもコミュニケーションが発生しないソロプレイヤーになり、会社員になってからはそうも言ってられないことに気づいて、「つまんねーこと言ってんな」なんて自嘲しながら最大公約数的で毛づくろい的な言葉を自分でもちょくちょく使うようになった。
多分、それが処世術だったり、いわゆる「コミュ力」なのだと思うのだが、徒に尖っていたころの自分が「お前つまらなくなったな」などとチクチク刺してくるので我ながら大変迷惑している。27クラブなんてものが実しやかに噂されている(た)けれど、もしかするとこういうことなのかもしれない、なんて思うことすらある。
こうして誰に読ませるわけでもなく読書感想文なんてものをネットの掃き溜めに書き連ねているのも、そういった軽薄な言葉の奔流の中で自分の感性や感覚までチープになっていくのを防ぐために、自分で何かを解釈しそれを自分の言葉として残しておきたいと思ったからだったりする。

ただここで常々疑問だったのは、果たして自分の言葉なるものは本当に存在するのだろうかということだ。
何かにつけて著名人の言葉を引用する奴、ネットのジャーゴンやミームでしか物事を語れない人というのは如何にも自分の言葉で話せていないということは納得できる。しかしながら、突き詰めて考えてみれば、いまこうして鉛筆なめなめ(←これって現代改修するならキーボードなめなめになるの?)文を書いているけれども、すでに用意された既存の文法と語彙を使って書いているわけで、結局のところそれって本質的に引用することとなにが違うのだろう、などと疑念が湧くのだ。

結論から言って、この本を読んだところでは、しっくり来る言葉を妥協なく選ぶことに違いがあると言えそうだ。また、そのようにして言葉を選ぶことは我々が遵守すべき倫理であり、果たすべき責任らしい。この考えには共感を覚えるところが大いにある。

他人の言葉を使うというのは良くも悪くも威を借るということだ。うまく使えば自分の考えや意見を的確に伝えることができるだろうが、多くの場合はその威光の影に自分の身を隠す姑息な戦法に過ぎない。自らの考えや意見からの責任逃れの手法となり得る。
だからこそ、自分の考えを深く省みて、また、使う言葉の意味を反芻して、自らが表現しようと欲する事柄に対し、適切な言葉を主体的に選択するという行為に倫理を見出すということは大変納得のいく話だ。

ただし、ここでもう一歩考えておくべきだと思うのが、しっくり来るという感覚は人それぞれなのだから、自分が一方的に他人の言葉を浅いなどと断ずることはできないのではないか、と主張しうることだ。
レトリックで煙に巻く政治家が使うタイプの言葉は別にするとして、私が他人のしっくり来る感覚を体験できない以上、メディアに横溢する常套句に本当に皆しっくり来ていないのか、ということについては一考の余地がある。
というのも、私がここで想起するのはネット上のミームであって、お前は人口無能か?といいたくなるくらい、if-thenで記述されたルールに基づいてよくあるネタ画像だったり、フレーズだったりを使って嬉々としている人たちが存在している。
恐らくTwitterでバズってるツイートを探していれば一日に数十人は観測できると思う。そして観察しているうちに気づくと思うのだが、この手の人達は本当に自分が面白いことをやっていると思っていることが多々ある。
ある一意の正しい世界が存在しないのであれば、どうして私がその人達のオモシロを否定することができようか。要するに、その脊髄反射的に繰り出されクリシェに成り下がったくだらない(と私が思う)その表現は、その人にとって大変しっくり来るものである、ということがいくらでも成り立つ。あるいは多数決などで優劣を決めることも可能だろうが、それは個人がしっくりくるかどうかとは別の問題だ。

そのため私はこの本で語られる、しっくりくる言葉で妥協なく選ぶという倫理にもう一つ追加しておきたい。それは、ある言葉を表現として用いる際に、しっくりこない、つまらないと感じられる感性を磨き続けなければいけない、という倫理だ。
本書でも言及のあるオーウェルの『1984』におけるニュースピークが独裁の手法であり非倫理的であるのは、その言語の使用者の「しっくりこない」という感覚を減じるからだと、私は思う。

と、ここまで、本書に共感しながら(実際に納得するところも大いにある)、自分が自分のためにこうして駄文を書きなぐることを正当化してきたわけだが、個人的には、言葉として表現できない/しないことも大切にしていきたいと思っている。
つまり、本書で書かれている倫理というのは、あくまで言葉で表現するという限定的な条件下で遵守すべき事柄であって、人間として存在する以上常に背負わされている倫理とは異なる、と思っている。
言葉にすることができない人、あるいは、言葉にすることが許されなかった人、というのは私は実際に存在すると思っている。その人達は言葉を選ぶことをしない/できないから、人倫に悖るのだろうか。私はこの問はあまりにもナンセンスだと思う。現実問題(あるいは社会における問題と換言してもよいと思う)として、言葉にしない/できない物(者)の存在を考えることができるのか、ということは大きな問題であるけれども、少なくとも私は言語化されない人の想いだとか感覚、非言語的なコミュニケーションみたいなものは大いに尊重したいと思う。
そのため人間にとって言語が至上のものとするような考えには常に警戒しておきたい。もちろん、本書がそこまでは言っていないだろう、ということも承知はしているし、本書に描かれるように言葉という世界が深遠で一個の人間に到底覗ききれるものではないという点も大いに賛同するところではある。
ただし、いくら言葉が深みを湛えているとはいえ、人間が言語を支配するものではないように、言葉が人間を支配するようなこともないと同時に思っている。言葉の世界はある個人が見聞きし考え感じる世界の隣にあるもので、言葉による表現というのは対等な立場としてちょっとそのお隣さんから借りてくるくらいのものなのではないか。

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