見出し画像

#9 カタバシスをカタバシスする(都市と公共編①)

タイトルだけでは何を言っているのか,また何か続き物になるのか,よく分からない本日の投稿です(笑).検索には引っかからないと思うので,SEO的にはセンスがないですね.

カタバシスと題した書籍は二つありますが,『憲法9条へのカタバシス』は第2回記事でも触れましたが,今日はもう一つの『現代日本法へのカタバシス【新版】』(みすず書房,2018年)を取り上げたいと思います.

『現代日本法へのカタバシス』の存在を知ってもらえれば,それで半分くらいの目的は達したかなと思います(?).同書のはしがきから少し引用します.

カタバシスとは「下降」ないし「下降行」を意味する語であり,転じて冥府に降りること,そして過去の人物たちに遭うこと,さらに転じて時間軸を遡ること,を指す.本書の場合,ギリシャ・ローマへ遡ることを意味しそうであるが,実が逆で,私としては現代へと下降するつもりである.つまりそうした皮肉を込めたい.(中略)本書全体を通じて,何かを論証するというより,ひたすら問題を摘出する思考が貫かれる.問いに答えるより問いを立てることの方が重要である,という(Momiglianoに倣った)私の学問観に基づくが,もちろん,若い世代が問いに答えてくれることを歓迎する.もっとよいのはさらに深く問いを立て続けることである.」

古代ギリシャ・ローマに「カタバシス」するのではなく,現代日本に「カタバシス」,つまり降り立ち,遭遇し,発見しようという試みです.したがって,現代日本のことが話題になっています.

そこでは,「問いに答えるより問いを立てることの方が重要」とされています.そこで,どのような問いが立てられているかを確認し,「さらに深く問いを立て続けること」が本日のテーマです.カタバシスをカタバシスするというタイトルの所以(ゆえん)です.

ちなみに『現代日本法へのカタバシス』と同名の第1章「現代日本法へのカタバシス」を題材に,何度かに分けて投稿する予定です.本日は第3回と共通する話題が多く,また第8回の振り返りとも重なる部分があり,あまり新味のない内容になるかもしれません.

自分の文章力のなさ(流れが悪い,記述に濃淡がある,等々)からは,これまでもあまり伝えられていない気もするので,同じテーマをもう少し敷衍することも許されるかなと思ったので,ご容赦頂ければと思います.

潜水航海士ジョヴァンニ・ヴァッラ

『現代日本法へのカタバシス』の最初の章を飾り,書籍のタイトルそのもののとなっている,「現代日本法へのカタバシス」が主な題材となりますが,その概要は以下の通りです.

「著者」(木庭先生に擬せられます)がナポリの古本屋を訪れると,店主トニーノが何やら怪しげな古本,そのタイトルも「2001年の日本,特にその法について,または潜水航海士ジョヴァンニ・ヴァッラの書簡,三巻」という本を手渡してくれます.

むろんタイトルからしておかしいのですが,紙やインク等から,偽書という可能性は排除されます.しかし著者にとって驚いたことに,擬古典風ラテン語で書かれたその本には,現代の日本の状況を知らない限り書けない内容ー最高裁判例とほぼ同様のテクストまでもーが含まれていました.

それは主人公,ジョヴァンニ・ヴァッラの書簡という形をとりますが(以下,「ジョヴァンニの書簡」といいます),彼は中世イタリア・ナポリの人文学者という設定です.ジョヴァンニは法学者ロベルトと語り合ううちに,(戯れに?)秘術を試みると,それが本当に作動し,共和政ローマではなく,遥か当方の世界,日本に降り立つことになります.

2001年の日本・東京に降り立ってしまったジョヴァンニは,そこでイタリア領事館のレナートに出会います.そして,彼を導き手として日本社会を観察し,それを法学者ロベルトに対して,-水晶玉を通じてー手紙を送ります.著者がその「観察日記」を日本語に訳したのが,「ジョヴァンニの書簡」となります.

「ジョヴァンニの書簡」は12の章(ないし節)からなります.イントロとあとがきを除くと,「都市の構造と公共の基礎(その1,その2)」「自由(その1,その2)」「占有(その1,その2)」「消費貸借」「錯誤」「代理」「請負・法人」の7つのテーマ(計10回)から成っています.

異空間,東京の第一印象

現代の東京と思われる街を目にしたジョヴァンニは,巨大な建物群に強い印象を受けつつも,どこまでが都市でどこからが領域か判然としないことに,「人々の精神的困難はどれほどのものか」と驚きます.

また,ローマの「民会」ではありませんが,元老院議事堂(国会か)や政務官居所(首相官邸やその他官公庁か)に案内されたところ,公共構造物が迷路にように配置される様を,共和政ではなく帝政と同じだと慨嘆します.

さらに,公共広場が見当たらないことから「これで本当に生きていけるのか」とつぶやきます.

「公共空間というものが理解されていない」ことを怪しんだ彼は,レナートに,ここの人々は「何が公共に属する(publicus)」と問われたら何と答えるか問うと,「国民(populus)が所有権者(dominus)である」返ってきます.しかしそれでは,誰のものでもない「res publica [国家] が僭主制(dominatus)」になってしまうと怪しみます.

ジョヴァンニが理解する(古代ギリシャ・ローマの)「公共」は,木庭先生のいう「公共」を代弁しているといってよいでしょう.

古代ギリシャ・ローマでは,都市と領域が区別され,都市は公共空間を中核として成り立ち,領域(農耕,即ち生産の場)や私的空間と区別されますが,そのような空間の切り分けがないことが,最初の観察となります.いわば第一印象と言っても良いでしょう.

ジョヴァンニが見落としたもの?

しかしここで,ジョヴァンニは,ある重要なものを見落としているかのような印象を受けます.

第3回でも触れましたが,ギリシャ・ローマの都市は,神殿を公共空間創設の柱とします.木庭先生の『政治の成立』では,「都市中心の形成と宗教」という一節を充てて,分厚い論証がなされています.

それを比較的読みやすくまとめた『新版ローマ法案内』でも,いかにギリシャ・ローマの都市の成立と公共概念にとって,「神殿」が重要であったかが語られています.

しかし,ジョヴァンニは,東京という都市空間に「神殿」があるかないかに全く関心を寄せません.現代東京において,「都市」「公共空間」の存否を疑問に思うならば,真っ先にその有無を確かめなければならないはずのもの.それは「神殿」ですが,そのことは一言も触れられていません.

古代ギリシャ・ローマでは,神々を地上に引き下ろし,人間のように空間に住まわせ,逆にそこに限定します.神々の家が林立する中で,人々の諸集団はその開かれた空間にアクセスしあうことで,公共空間が出来上がります.都市は,神々という概念を巧妙に使って実現されます(『新版ローマ法案内』p.30-32).

かくも重要な存在であるはずの「神殿」について語られないのは,なぜでしょうか.もしかすると,ギリシャ・ローマの「公共」空間の創設に果たした役割は,特殊で偶発的なものであり,普遍性を有するものではなかった,というでしょうか.もしかすると,ジョヴァンニの時代の中世イタリアにも既に「神殿」は存在せず,そうでありながら「公共」という概念は維持可能であったことが前提となっており,その点を現代日本について論ずる必要はなかった,という可能性があります.しかし,本当にそうでしょうか.

「神殿」の二つの機能

なぜ古代ギリシャ・ローマでは公共空間の実現に神殿が用いられて,それが公共概念の成立にとって,現代日本にとっても必要であるのか.もう少し「カタバシス」してみたいと思います.

ギリシャ・ローマでは神殿が利用された一つの理由は,公共を維持するために,「誰でもない」神々に対して資源を贈与し,交換や負担の観念を断ち切るという目的があったとされます.公共の物に果実収受関係を成り立たせないためです(『新版ローマ法案内』p.31.『政治の成立』も参照).

また,そうした物的装置としてだけでなく,政治が宗教を完全に制圧する意味合いがありました.宗教が不透明な集団や再分配作用を媒介させることを防ぎ,信仰ではなく省察の対象とするため,神話や儀礼の中の登場人物とします.神殿は「秘密の集会を起源とする教会のように」人々が集う空間ではなく,半透明性を確保するデヴァイスとなります.

そのような「機能」を担った「神殿」がないことは,ジョヴァンニの目には留まらなかったのでしょうか.

この点は,問いを立てること自体から除外されていることが,やや不思議な感じもします.『現代日本法へのカタバシス』は,問いを立てることを目指しているのではなかったのか?なぜ,この問いは,問いから外されてしまったのか.私たちがさらに深く問いを立てるしかないようです.

日本における公共の現状

「神殿」の一つ目の機能ですが,公共の意味に差異がある可能性に注意する必要があるとはいえ,現代日本で「公共」と観念される空間は,税金によって支えられています.

公共空間を維持する資源を調達する方法としては,神殿への贈与ではなく,現在では税金の徴収となっています.では,それによって古代・ギリシャローマでの「神殿」の機能は代替しているのでしょうか.

神殿は「誰のものでもない」ものを作り出す媒体となりましたが,納めた税金が「誰のものでもない」なのか,あるいは「国民のもの」「私たちのもの」なのか,判然としません.そのような中で,単に「誰のものでもない」という「意識」を涵養すれば良いのか.そのような意識を媒介する「神殿」のような存在がなくとも,それが実現できるのか.ジョヴァンニーあるいは木庭先生ーの問題提起はなく,もちろん答えは示されていません.

次に「神殿」のもう一つの機能である,宗教の「統制」はどうでしょうか.第7回「占有と人権の距離」でも触れましたが,人権概念誕生の原動力となり(第7回参照),精神的自由とも近接する「信教の自由」(第5回参照)を制圧することは,現代社会にとって望ましいことなか,かなりの注意が必要と思います.木庭先生は明確にそれを志向しますが,その選択は我々に託された課題であると思います.

「宗教は文芸化し利用するのであり,否定しない.大根の葉っぱも味噌汁に入れて利用するようなもの」(『誰のために法は生まれた』p.384)とある通り,仮に木庭先生がatheisticな指向を有していることは理解できるにしても,宗教に「大根の葉っぱ」程度の価値しか認めない世界では,結局のところ,隣接する精神,思想,ひいては表現の自由も侵食されてしまうのではないと,警戒心を抱いてしまうのが正直なところです.

ギリシャ・ローマにおいて「神殿」が果たし二つの機能は,現代社会には存在しない場合,「公共」の概念もまた存在し得えず,単に「公共もどき」に終わってしまうのか,それとも新たな「公共」概念を構築することができるのか.ここでは問題提起だけに留めます.

「自由」との関係

「ジョヴァンニの書簡」では「都市の構造と公共の基礎」は,その1,その2と分けられており,本日は「その2」まで扱う予定のところ,時間切れとなってしまいました.

時間切れでも投稿はしてしまう,というポリシーのもと,「タイトル」も「都市と公共編」に「①」と加えざるをえなくなり,やや中途半端に終わってしまったことをご容赦ください.

ジョヴァンニが念頭に置くーつまりは木庭先生が想定するー「公共」は,ただその不在が指摘されるに留められ,成立条件については十分に語られていないことから,その点を少しだけ「カタバシス」しました.

ただ,そもそもなぜ「公共」が必要なのか,という理由まで考慮しなければ,この問いは単独では水掛け論になってしまうおそれがあります

都市と領域の分節(区分),ひいては公共空間の創設は,自由,つまりは「贈与交換を典型とし,しかし言語行為や記号連関をも含む,échange(交換)によって媒介される相互依存(réciprocité)に由る支配従属関係」からの解放,を目的としていたはずです.

したがって,目的であるところの「自由」をそのように定義づけることが適切か,その実現方法として都市と領域を分節することが必須なのか,という問いにまで遡って考えることが必要なように思われます.

そこで次回は,「都市と公共」(その2)でデモクラシー論を(ようやく!)扱いつつ,「自由」の意義を再検討することができればと思います.

(補足)

今週末もすごい日程のもと,書きなぐってしまいました.あまり新味のない内容となってしまい,申し訳ありません.

欄外に残っていた下書きを削除しました.「日本における公共の現状」の一文の表現を少しだけ直しました(11/15).

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?