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#13 信託は二流の控え選手?

今回のテーマは「信託」です。

代理、不法行為法に続く、「法」のトピックです。必然的に占有(法の原理)、そしてbona fides(契約法の原理)との関係が問題となることが予想されます。

当初は、ローマ法の「信託」類似の制度と現代の「信託」の比較を行うことを想定していました。

しかし、『新版ローマ法案内』では、信託に比せられるローマ法の制度(fiducia、等)の記載は短く、手掛かりが少ないことに気づきました。一般のローマ法に関する書籍の方が、具体的な制度内容については詳しいかもしれません。

一般の信託法の書籍でも、信託制度の起源として、イギリス固有法説が通説ですが、ローマ法上の信託遺贈(fidei-commissum)に信託の基本スキームを見る見解も紹介しています(新井誠著『信託法』(2014年、有斐閣)p.3)。ここに細かな対抗関係を見るのは、信託法の専門家に任せた方が良い気がします。

そうした起源とは別に、木庭先生は、信託制度について特別な問題意識を有しているように思われます。本ブログの趣旨も、木庭先生のテクストを読み解くことにあるので、ローマ法の制度そのものというよりも、信託に関する木庭先生の理解に焦点を当て、信託の制度趣旨、存在意義等の観点から、批判を試みたいと思います。

とはいえ木庭先生に、信託についてまとまった論考があるわけではないので、『現代日本法へのカタバシス』における数ページの信託に関する言及に焦点を当てることになります。その凝縮された記載からは、信託がどのように見えるのでしょうか。

そうした木庭先生の信託に対する態度(attitude)をメインに、占有やbona fidesとの関係の位置づけることを試みたいと思います。

今回も、英米法あるいはアメリカ法の参考書として、樋口範雄著『入門 信託と信託法(第二版)』(弘文堂、2014年)を参照しました。入門書であるがゆえ、大変分かりやすく、すらすら読めます。日本の実定法としての「信託法」にも言及はありますが、あくまで「信託」とは、英米法の「信託法」とは、という点に記述が割かれており、信託法改正時に出版されたあまたの類書とは異なります。ご一読をお勧めします。

そして、既に引用したように新井誠『信託法〔第4版〕』は、信託法に関する標準的な教科書として、大変面白く、参照させていただきました。

それでは、木庭先生の著作から引用することから始めたいと思います。

ローマを遠く離れても

木庭先生の問題意識を探るという観点から、改版前の旧著を少し見てみたいと思います。

「第6回 ローマ法と英米法の距離」でも扱った、一種のヴァリアント研究(?)ですね。

『新版ローマ法案内』(勁草書房)の前に、羽鳥書店が『ローマ法案内』として出していたものから少し見てみます。

旧版『ローマ法案内』(2010年)では、以下のような記述があります。

例えば太宰治「走れメロス」に現れる固い友情ないし信頼関係は契約において要求されるわけではない.「走れメロス」の原型自体既に,政治から派生しデモクラシーの中で培養された結社の精神の例解であり,イタリア南部のギリシャ植民都市域のピタゴラス教団を震源とする伝承である.これに比しても契約に要求される信頼関係はさらに異なり,もう少し自由開達である.それでも,「走れメロス」の何がしかの要素は契約においても受け継がれていなければ,われわれの契約法は成り立たない仕組になっている,というように言えば,何故ここで言う政治が私法上も不可欠であるかをあらかじめ想像することができるであろう.委任や組合はもとより,ローマを離れても例えば取締役の信認義務や信託などにおいて遠く受け継がれる.(『旧版ローマ法案内』p.20)

古代ギリシャの政治に根ざす「信頼関係」は、ローマで育まれた契約法原理にも影響を与え、「ローマを離れて」「信託などにおいても」「遠く受け継がれる」と読めます。

「ローマを離れても」というのは、時間的な懸隔をいうのでしょうか、地理的な距離をいうのでしょうか。

委任や組合が、ローマ法では典型的な概念であることとの対比でいうと、ローマ法や、その流れをくむ大陸法(木庭先生はこの点にはさんざん留保を付しますが)というよりも、英米法を念頭に置いているようにも感じられます。「取締役の信認義務や信託」は、主として英米法で発達した概念とされているからです。

英米法の信認義務や信託にも、ギリシャないしローマに起源を有する信頼関係が見出されるとしたら、それは何らかの影響を及ぼしている、ということなのでしょうか。

しかしながらこの部分は、『新版ローマ法案内』からは削除されています。

以上は序章(「0.序」)の記述ですが、具体的な内容に入ると、旧版と新版の間で、信託に関する記述はさほど変わっていません。そこで『新版』からの引用となりますが、fiducia(フィードゥーキア)との関連で以下のように論じています。

占有の質が良くなるというのであれば、未成年者や女子にのみこのようなことを限定する必要はない。まずは領域上に固く結ばれてた隣人友人どうし、譲渡すると見せて預け合うのはどうか。これはfiduciaと呼ばれた。信託類似の制度である。嫁資が信用供与の関係であることを理解すれば、fiduciaは容易に理解できる。ただし(後述の)一層発達した信用制度に比して領域上の固い人的結合に依存するものであった(p.85)。
既に少し触れたfiduciaもまた、bona fidesが確立されれば良好な環境を得たと思われる。この制度は元来領域の名望家層(boni viri)のものであったが、都市の階層が新たな信頼関係を背景に領域の占有を組み込むときに有用な道具となった。自分は都市に移り住み、信頼できる者にfiduciaの形式で領域占有の経営(農場)を委ねればよい。dosと同じように領域占有を資産化するであろう(p.120)。
元来はbona fidesを諸都市の政治システムが裏打ちすることによって、この信頼は担保されていた。しかしもし今領域の上に降り立ったと称されるbona fidesに懐疑的な者があれば、売り渡し担保や譲渡担保に類した形態が生まれるのは自明である。これは占有原理が最も嫌う病的な現象であるが、fiduciaがこのために使われるようになったことは十分よく知られる(p.180)。

fiduciaを指して、信託類似の制度と呼んでおり、短い記述からは分かりませんが、少なくとも信託制度に対して、中立的な評価を抱いているようにも見受けます。bona fidesという基盤があれば、という条件付きですが。

他方で、譲渡担保に言及しつつ、fiduciaがこのために使われるようになったという箇所からは、強い問題意識を秘めているのではないか、という予感もします。

以上、『ローマ法案内』では、信託については抑制されたニュアンスが感じられながらも、新版ではあえて「契約に要求される信頼関係は」「ローマを離れても」「信認義務や信託などにおいて遠く受け継がれる」という前向きとも取れる箇所は削除されたことなります。

そこには、信託に対する後の徹底した批判の兆しが見えなくはありません。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い?

次に、今回の主な参照先となる『現代日本法へのカタバシス』ですが、『ローマ法案内』との関係について少し触れます。

『現代日本法へのカタバシス』の中の「日本の民事法が抱える問題」(第8章)に、信託に関する記載がありますが、「日本の民事法が抱える問題」は、旧版である『現代日本法へのカタバシス』(2011年、羽鳥書店)の中では、『ローマ法案内-補遺』と題されていました。

旧版『ローマ法案内』(2010年)より後に出版されただけでなく、「補遺」という書き方からも、『ローマ法案内』の後に続くものとして書かれたことは間違いありません。

実は手元に旧版がなかったことから、新版の『現代日本法へのカタバシス』を参照します。そこでは、信託について、以下のように記述されています。この後続く数ページの劈頭を飾ります。

所有権者と信託受託者は類似の関係に立つ。信託受託者の「所有権」が擬制されるというばかりではない。受託者は資産としての軀体の費用=果実関係を最適化して果実を受益者に取らせなければならない。そのような軀体を抱える点は所有権者も同様である。所有権者は委託者兼受託者兼受益者であるようなものである。その分、勝手をして基礎を破壊し自滅しうるが、受託者という単一頂点の人格に全てが懸かる点を考慮すればリスクは同じである。本格的な政治システムを構築することができない間の便法たる点が共通なのである。とはいえ、委託者と受託者という異なる二つの人格の間の信頼関係へと事柄を裂く、ましてさらに受益者を別に設定する、ことは大きな違いをもたらすはずである(『新版現代日本法へのカタバシス』p.254)。
この点を考えると、信託は、明らかに、本格的な政治システムはまだ熟していないが先行して(やや特殊な)所有権者間のbona fides関係は存在する一方、他方でこれも別途また先行したbona fides本体は領域を制覇するには至らない、という状況下に領域に成長してきた軀体をbona fides本体の空間に連結するための手段である。すると、一面で多くの前提を欠く日本の近代に相応しい。現に早い時期に導入が試みられた。しかし他面、そうは言っても必要な所有権者間のbona fides、ないし凡そその基盤とその階層、が未成熟であるから、これも成功しないのではないかという予想が立つ。そればかりか、無理に導入をすれば、根拠のない信用があると想定することになるから、弊害が生ずるのではないか。

さらっと読み流されてしまいそうですが、ここでは信託に対して、読みようによってはかなり辛辣な見方が示されています。やや嘲笑気味なトーンすら感じられます。

信託に対するこのような評価は、二重三重の構造をもっています。

まず、信託という制度自身について、政治システムを構築されるまでの存在意義しか持たない便法ー便宜上の手段ーという言い方がされています。

次いで、であるからこそ、いくつかの前提を欠く日本の近代にとって相応しいとしています。ただの便法のような存在だが、本格的な信用システムの導入などおぼつかない日本においては、むしろお似合いなのではないかと。

さらには、とはいえ、bona fidesをはじめとする様々なリソースを欠く日本においては、結局、信託であっても成功するわけがなく、むしろ弊害が生ずるのではないのは目に見えている、と結論づけています。

上で引用した旧版『ローマ法案内』で示されたニュアンスとは若干の距離があります。むろん、「fiducia」が領域の名望家層の間で生まれたという経緯を経て、譲渡担保のような使われ方をした、という記述からは、その予兆は現れていたともいえますが、ローマから離れても、信託にはbona fidesが遠く受け継がれたのではなかったでしょうか。

この間、信託に対する態度に変化があったか否かは、明らかではありません。旧版『ローマ法案内』の時には、既に信託について上記のような評価は定まっていたのかもしれません。あるいは、『ローマ法案内-補遺』を書き上げる際に、より詳しく信託を検討する中で、何か異質なものを感じたのかもしれません。

ともかく、もう少し木庭先生の真意を探ってみたいと思います。そのためには、木庭先生が念頭において、信託に対抗させているであろう、ある構図を手掛かりにしたいと思います。

委任(mandatum)の基本構造

木庭先生の一連の著作では、信託が常に「信用」の文脈で位置付けられていることは、一つの注意すべき特徴です。

その点ーそれが信託に関する理解を狭める遠因になっていることーは後に述べるとして、木庭先生が信用のプロトタイプとして位置付けている、委任の構造をみることで、信託に対する見方の手掛かりを得たいと思います。

『新版ローマ法案内』p.106頁以下を参照頂ければと思いますが、emptio venditio(諾成契約としての売買)に見られる信用の形態を拡張するのが委任(mandatum)であるとされています。

委任

登場人物(A、B、M1、M2)は上図の通りです。

Aは小麦の生産に従事し、Bはパンを製造していたとします。しかし、Aには(Bに)供給すべき小麦がなく、Bには資金がないとします。間にたってMが果たす役割が委任であるとされています。以下、少し引用します。

AもBも資力なしの状況でなお消費貸借を回避できるのではないか。MがAにかわり、Aのために、しかし自分の名において、Bに小麦を売る。否、これをM1としBのために小麦を買うM2に売る。M1とM2の間にしか売買はない。その売買はemptio venditioである。しかし、M1は小麦のストックを有し、M2は金銭のストックを有する。小麦はBへ、金銭はAへ渡るが、BはM2に金銭を、AはM1に小麦をそれぞれ後から給付する。このようにカヴァーされるということを信頼してM1は売却を引き受け、M2は支払いを引き受けたのである。これが委任であり、M1M2は受任者として大きな責任を負う。(中略)かくして、mandatumこそはbona fidesという原理の核心である。AとBが領域の中にあり、したがってbona fides の取引に直接的には関与できない場合、M1M2を介してAとBの領域上の活動をそうした取引へとインテグレイトする、という重要な役割をも委任は担う。つまり領域と都市の取引圏の結節環となる(p.106-107)。

M1、M2はA、Bが必要とするリソースを有しています。M1、M2は、領域のA、Bに対して、委任という諾成契約に従い、A、Bが良い結果を上げることを期待して必要なリソースを供給し、A、Bは後からこれに応える。信用を供与している、ということになります。

領域にいるA,Bに信用力に不足しますが、都市にいるM1、M2には資力があり、その信用を補いうる階層です。M1、M2の間の売買も諾成契約であって、実際に小麦がM2に引き渡されるわけではありません。自己の責任で行動する、高度に専門的な存在であって、信頼のみによって拘束されます。

この構図を手掛かりに、信託における登場人物と、それらの人物間の関係について考えてみます。

「信じて託す」信託の構造

信託では、どのような登場人物がいるのでしょうか。信託についてイメージが湧かない方もいると思いますので、樋口著『入門 信託と信託法』の最初に紹介されている仮説例を引用します(文中に掲げる図も同書からの転載です)。

仮に、東山魁夷が描いたもう1つの「道」が発見されたとしましょう。この国宝級の絵が自分の家の倉庫から発見されたSは、たまたま美術に造詣のある友人Tを知っていました。Sは、自分の家だけにこの絵を飾っておくのではなく、多くの人にも見てもらいたいと考えます。しかし、必ずしもお金持ちではないSは、そこから一定の収入を得たいと考えており、その収益は離れてつましく暮らしている息子のBの生活費の足しにしたいのです(Bは障害をおっており、自活するのが苦しいと仮定します)(p.3)。

信託2

このようなケースで、Sには2つの方法があります。1つは、SとTとの間で委任契約を結び、その内容として、Tが絵画を管理して収益を上げ、それをBに配分するという約束にするのです。Tに何らかの報酬が支払われるかはSとTの契約によることですが、仮に、ここでは、収益の中からTが一定の手数料を受け取ることにしておきましょう(同上)。
同じことは信託を使っても行うこともできます。その場合には、SはTに絵画を信託譲渡します。絵画の名義はTに移ります。しかし、信託条項で、Tには受託者としての義務が明記されており、この場合その内容は先の委任契約と同じです(なお、信じて託される人のことを信託法では受託者と呼びます。信じて託す人、今回のSは委託者、利益を受けるBは受益者です)(p.3-4)。

やや遠回りになりますが、信託の構造を、あえて木庭先生が委任において描いた構造に当てはめてみると、下図のようになります。

信託2

登場人物は、先ほどの委任と1対1対応ではありませんが、構造を掴むという意味で、特徴的なのは、受託者の位置づけです。

受託者には、委託者から信託財産が譲渡されます。そして、信託財産は手元に置かれることになります。つまりは、占有をも持つことになります。

委任は、諾成契約により成立しました。そして、委任を受けたものは、委任者のところに入っていくわけでもなく、種類物(例:小麦)を占有するわけではありません。もちろん自分のところに種類物があって、それを引き渡すのですが、逆に委任を受けた者に引き渡せと請求することはできません(『新版ローマ法案内』p.107参照)。

ちなみに信託契約については、従来より諾成契約説と要物契約説の対立があり、現信託法第4条は、諾成契約説の趣旨を明らかにしたとされていますが、具体的な信託の効力は、信託財産の引渡しを受けたときから発生すると考えるのが自然と思われます(新井『信託法〔第4版〕』p.119、123参照)。

いずれにしても、売買を基本にした委任の信用構造とは異なり、受託者は、信託財産について譲渡(信託譲渡)され、引渡しを受けます。そこで、(占有を取得するという意味で)領域にも片足を、(信用を供与すると意味で)都市の階層にも片足を置くという、という存在となります。受託者が領域と都市を跨ぐように描いたのは、その趣旨です。下部の占有と上部の(市民的)占有といえばよいでしょうか。

もう一度、『新版現代日本法へのカタバシス』から引用します。

所有権者と信託受託者は類似の関係に立つ。信託受託者の「所有権」が擬制されるというばかりではない。受託者は資産としての軀体の費用=果実関係を最適化して果実を受益者に取らせなければならない。そのような軀体を抱える点は所有権者も同様である。(中略)受託者という単一頂点の人格に全てが懸かる点を考慮すればリスクは同じである〔ものの〕、委託者と受託者という異なる二つの人格の間の信頼関係へと事柄を裂く、ましてさらに受益者を別に設定する、ことは大きな違いをもたらすはずである。

信託では、登場人物は、委託者と受託者、さらには受益者と増えるので、単純な所有権構造とは異なります。しかし、結局は、受託者にすべてが掛かるので、所有権を利用して信用を調達しようとするものであって、リスクは同じであると断定されます。

「異なる二つの人格の間の信頼関係へと事柄を裂く」という言い回しは、どこか不思議な表現です。もちろん「分節」という言葉はここでは適しませんが、単に「分けられる」「分離される」という言い方をしません。「裂く」という表現にも、暗黙の裡に、信託の基本的な構造に対する懐疑の念が現れていると言えるでしょう。

おなじみの舞台設定?ー都市と領域

少し長くなりましたが、ようやく『現代日本法へのカタバシス』における信託の記述を分析する概念が揃ったので、解読のために再掲します。

この点を考えると、信託は、明らかに、本格的な政治システムはまだ熟していないが先行して(やや特殊な)所有権者間のbona fides関係は存在する一方、他方でこれも別途また先行したbona fides本体は領域を制覇するには至らない、という状況下に領域に成長してきた軀体をbona fides本体の空間に連結するための手段である。

この凝縮された言葉を読み解くのは簡単ではありません。正解であるとは限りませんが、皆さんの検討のヒントとなるよう、一つの解釈を提示したいと思います。

まず、「(やや特殊な)所有者間のbona fides関係」とは、誰と誰の関係を指すのでしょか。信託における登場人物は、委託者、受託者、受益者がいるので、3通りが考えられますが、委託者=受益者である自益信託でない限り、通常は、受託者と受益者との間には、事前に関係は存在しないでしょう。

それでは、委託者と受益者の関係はどうでしょうか。確かに、委託者は、受益者との間には、一定の関係が先行します。そうであるからこそ、委託というスキームを用いて、受益者に利益を享受させたいと考えるのです。そして、受益者は(次回取り上げますが、英米法では)エクイティ所有権を有しているとされているので、所有権者ということもできそうです。

しかしここでは、それを指して「やや特殊な」と言っているのではないと考えます。ベースとなっているのはローマ法であって、それを受継した大陸法系では、受益者の持つ権利は基本的に債権であると考えられるからです。

そうすると、消去法から言っても、所有権者間のbona fidesとは、委任者と受託者の関係を指すことになります。彼らの間には、一定のbona fidesの関係があるでしょう。そうでなければ「信じて託す」ことはしないからです。あるいは信託契約を通じてそれは構築されます。それでは、「やや特殊な」という点は、どのような意味でしょうか。

委任の構図を思い出して頂ければと思いますが、ローマ法において委任を受ける層(M1、M2)の間にbona fidesの関係があり、それに似つかわしい、諾成契約としての売買が行われました。bona fidesの関係は、都市においてリソースを有する層の中で見られる関係であるのが出発点です。

これに対して領域に成長していた躯体とは、出発点となる委託者の資産を指すと考えられます。委託者はそれをできれば最適化し、受益者に果実(利益)を与えたい。そのために、受託者に信託財産を譲渡します。

木庭先生は特に信用という文脈に、信託を位置付けます。したがって、信用を供与することができる「都市」の階層に財産を委ねるべきである、という含意を持つことになります。またそのようなリソースを有した層が発達していないと、信託などうまく行くはずがない、ということにもなります。

「別途先行したbona fides本体」とは、例えば、信託銀行であったり、証券会社のような存在を思い浮かべてもらえばよいかと思います。

翻って我が国では、「受託者の資源をどこに求めるか、は所有権者階層の未発達状況の中では重要な問題である」(『現代日本法へのカタバシス』p.257、脚注68)という分析がなされています。

「bona fides本体は領域を制覇するには至らない」、つまり受託者となりうる層が十分に発達していないという状況下で、「領域に成長してきた軀体」=委託者の資産を、「bona fides本体の空間」、つまりは都市の所有権者階層に繋げるための手段が、信託ということになります。

さて、「やや特殊な」というのは、典型的には都市の階層にあるbona fides関係が、ここで領域と都市の間、つまり委託者と受託者との関係にも見出すことができる、ということを指しているように思われます。

以上、舞台設定は整いました。木庭先生が信託というものをみる視線は、都市と領域(政治システム)、領域を制覇する都市におけるbona fidesの階層、という構図の中においてです。

それは、例によって木庭流の鮮やかな分析の視座を提供しているともいえますが、そこを出発点に据えるときに、既に信託が発達してきた現実を捉えきれていないのではないか、という疑念も生じるところです。

次回以降、そのような疑念を元に、『現代日本法へのカタバシス』の中で取り上げられている判例(最判平成14・1・17)や、彼が取り上げる信託類型の特徴を分析してみたいと思います。

人生における「信認関係」

今日はここまでですが、信託というのが、思ったよりも幅広い社会の構成要素になっているのではないかという点を述べて、締めくくりたいと思います。

木庭先生の視座は、基本的には信用という観点から見るスタンスであり、それが限界を画しているという点は、次回も敷衍する予定ですが、信託の射程は、英米法の信託発展の歴史からみても、信用や財産運営(管理・利殖)の観点には限らないと思います。

信託という言葉は多義的であり、日本国憲法前文の「信託」や、国連「信託」統治という概念は、確かに狭義の信託とは異なります(新井『信託法〔第4版〕』p.3参照)。他方で、そこには「信認関係」という共通の構造が見えるとも言えないでしょうか。

タマール・フレンケル著『フィデューシャリー「託される人」の法理論』(弘文堂、2014)「はじめに」から引用します。

私たちは、親子関係をはじめとして、生涯を通じて、受認者であったり、受認者から利益を受ける側になったりと、「信認関係」にあることが多い。たとえば、代理人、会社の取締役や執行役、信託の受託者、弁護士、医師などの受認者になる場合もあれば、受認者の相手方、すなわち、代理人に権限を与えた本人、投資家、信託の受益者、弁護士の依頼人、患者になる場合もある。」

私たちが契約に基づき「信じて託す」場念もありますが、逆に、契約によらず「信じて託される」という場面もあり、その一つは親子関係だと思います。木庭先生はやや批判的に、信託制度について「受託者という単一頂点の人格に全てが懸かる」と言っていましたが、確かに子供は、両親という存在に全てが懸かっている時期が間違いなくあります。親は子に対して受認義務を負うと考えることができます。

人は生きていくためには、多かれ少なかれ、他人に頼らなければなりません。そうした相互依存の中には「信認関係」と言えるものがあり、それは契約関係に解消できない側面を持つと考えます。bona fidesは、木庭先生の理解では、基本的にはbona(資産)に基づく取引上の信用を原義としており、したがって契約法の原理であって、それゆえに射程範囲も自ずと限られます。「信認関係」を独立のカテゴリーと考えるべき所以です。

広い意味での信認関係や、信託と契約法との関係については、『フィデューシャリー「託される人」の法理論』(弘文堂、2014)「はじめに」「第5章」あたりもご参照ください。

(補足)

・冒頭で旧版『ローマ法案内』から引用した「委任や組合はもとより,ローマを離れても例えば取締役の信認義務や信託などにおいて遠く受け継がれる.」という一節ですが、「受け継がれる」というのが、事実の言明ではなく、「受け継がれるべき」という規範的な言明であれば、確かに意味が通る面はあります。いずれにしても、新版では削除されており、その真意は明らかではありません。

・今回、木庭先生の視座を探るのが主眼だったので、信託に関する一般的な説明を省いてしまいました。次回以降、倒産隔離等の法的効果についても触れてたいと思いますので、ご容赦ください。『入門信託と信託法』p.21は、以下のように信託と契約(委任を含む)の対比について表にまとめているので、引用します。

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