見出し画像

#11 誰のために代理は生まれた

今日は「代理」という具体的なテーマを通じて,「ローマ法」と「英米法」を対比させてみたいと思います.

これまで第6回で,ローマ法と英米法について取り扱いましたが,総論的な話だったので,もう少し具体的なトピックを考えてみるという主旨となります.

ローマ法から英米法への影響は当然認められるとしても,発想やアプローチの仕方に無視できない差異がある,と言ってみても,は抽象的なので,例えば「代理」という制度を通じて比較してみた方が,その差異をより明らかにできると思った次第です.

事前にお断りするのは,英米法といっても,今回,樋口範雄先生の先生の『アメリカ代理法』を主に参照しており,実際はアメリカ法となります.以下,英米法と簡単にリファーする場合がありますが,アメリカ法であることをご容赦ください.

また,私の理解する限りでの『アメリカ代理法』ではあるので,その点はご容赦頂ければと思います.その代わり参照した出典は明らかにし,公平を期したいと思います.

入手しやすい素材を元に,権威に囚われず,率直に疑問をぶつけてみる,というのが本ブログのポリシーなので,少しでも考えるきっかけやさらなる批判の素材を見つけて頂ければ幸いです.

実は,木庭流「ローマ法」に興味がある人は,あえて英米法と比較しようとは思わず,英米法に関心がある人は,木庭先生は関心の対象外になっているような気がしています.

学問の領域としては,ローマ法(大陸法ではない)と英米法とでは,やはり距離があるのは確かです.

そこで両方の視点にできるだけ寄り添い,比較考察をすることは,研究のような厳密さはなくても,一定の意義はあると思います.

なお,「法」関連のトピックとしては,今後,占有,契約,信用論,不法行為も論ずることができればと思います.

宮崎山林取引サドンデス事件

今日は『笑うケースメソッド 現代日本民法の基礎を問う』(以下,「笑うケース民法」)第5章「契約は天上階で」から,第1事案「宮崎山林取引サドンデス事件」(最判昭和45年7月28日民集24-7-1203)を取り上げます.

判例としては,民法の表見代理の重畳適用の事例とされています.下図は「笑うケース民法」p.76からの引用です.

第1事案

詳細は笑うケース民法を見て頂ければと思いますが,概要,上告審の事実認定によると,

・YはAに対して本件山林を売却します.その際,Yは,所有権移転登記手続のため,Aの代理人aに印鑑証明書,権利証,白紙委任状(「本件書類」)を交付し,aはAにこれを交付します.Yは代金205万円のうち,20万円を受け取ります.

・Aはaをして,本件書類をaに交付して,Xとの間で本件山林とXの山林との交換に当たらせて,aは,Xから代理権授与がないにもかかわらず,本件書類を示してYの代理人のように装い,交換契約を締結します.Xに対しては,追銭の一部(計15万円)と,本件書類を交付します.

・面白いことに,Xは本件書類の交付を受けているのに,移転登記できておらず,Yに対して所有権移転登記手続を求めて,本訴を提起しています.この点について,笑うケース民法では,登記官が,本件の怪しさを感知し,登記手続完了に至らせなかったのでは,と推測しています.

参考までに,判例タイムズ(No.252, p.152)の判決要旨は以下の通りです.

「Yが,その所有の不動産をAに売り渡し,Aの代理人aを介して白紙委任状,名宛人宛白地の売渡証書など登記関係書類を交付したところ,右不動産の所有権を取得したAから,これをX所有の不動産と交換することを委任されて右各書類の交付を受けたaが,これを濫用し,Yの代理人名義でXとの間で交換契約を締結したときは,Xにおいてaに代理権があると信じたことに正当な理由があるかぎり,Yは,Xに対し民法109条,110条によって右契約につき責めに任ずべきである.」(原文の甲乙丙丁は,図に合わせて,YAaXにそれぞれ修正しています.)

「笑うケース民法」の先生(老教授)と生徒のやり取りの独特の雰囲気は,到底,簡単には伝えることができませんが,以上を前提に,今回のような登場人物らが,いわゆる三点セット(権利証他)という物的なモノを振りかざし,売買が交換によってゲーム終了するなど,言語に基づく信頼関係にあるとは到底いえないということを見てとります.

そのあたりの明快な分析は,さすがです.物的関係から逃れられず,信義誠実(bona fides)の原則が働いていない社会構造・・・日本の病理があぶり出されます.

結論として,基本代理権を前提とした権限外の行為の表見代理(110条)は,そもそも代理権がないところに働かせることはできないとして,109条との重畳適用を認める判例には反対しています.

以上,概要ですが,これを前提に,英米法ーアメリカ法との違いを見てみたいと思います.

「信頼のサークル」の中での「高速取引」

「ローマ法」での契約法は,ある社会構造を背景として生まれた,というのが木庭先生の問題意識の根底にあります.

実は代理は,委任における信頼関係がさらに堅固になった場合に認められる「便法」(『笑うケース民法』p.109)なので,委任も論じる必要があるのですが,それは次回以降に譲ります.

「T:委任については次回に詳しく取り上げますが,110条は,まず委任における委任者第三者間に,本来はない直接効果のフィクションを発生させ,代理を生み出し,その足で,次にその直接効果を「権限踰越」分へと,さらに拡大したものです.そこには,二段のフィクションがある.つまり,当事者たちがもともと信義誠実の関係にあるところ,それがスーパーな程度に達しているので,いちいち確認を要さず物事がオートマティックに進む.信頼に基づいた高速大量取引がある.もちろん,そういう場合にも間違いは起こる.しかしおたがいさまだから追認してしまおう.そういうわけです.かくして,110条は,横一列に三者が並び,たがいに信頼で連帯している,一個の横断的結合を達している場合に働きます.」(「T」は老教授を指します.『笑うケース民法』p.83)
「T:(代理人aは)まず現金主義である.そして,まるで動産を現実につかむようにして書類をやりとりする.そもそも土地のこの3点セットを働かせること自体とんでもないことで,根深い悪習ですが,ここに手を染め,ここに生きる連中が存在する.トレーダーですね.他方,自分は手を動かさずに,トレーダーを使う連中もいる.とりあえず,前者のカテゴリーは信頼のサークルの外にあるといってよい.」(『笑うケース民法』p.84)

もともと,ローマの政治システムの傘の下で,高度な信用に基づく取引を担った階層が存在したという歴史が,契約法の登場と背景になったというのが出発点です(『笑うケース民法』p.95).

そこには,本人ー代理人ー第三者との間に信頼と連帯があります.そのような前提を欠く場合に,安易に代理の法理を適用してはならない,というのは,木庭先生ならではの洞察と言えるでしょう.

それでは,アメリカ法に目を転じてみると,どうでしょうか.「アメリカが,1890年代に,ヨーロッパの先進諸国を追い抜き,世界一の工業国」とな(り),このような社会状況を背景として,「経済的な分業の発達と組織の複雑化」が生じ,代理法が法律学の「舞台の中心へ躍りで」ることになった(『アメリカ代理法』p.7,田中英夫『英米法総論(上)』p.293)とされています.

取引の発展とした背景という意味では,ローマ法と共通するようにも思われます.アメリカでも「自分の手足として代理人を用いることにより,幅広い経済活動に乗り出そうとする」からです.

しかし,実際の法制度としては,無視できない差異があるように思われます.

誰のために代理は生まれた

木庭流ローマ法では,本人ー代理人ー第三者との間に,「たがいに信頼で連帯している,一個の横断的結合」があることが強調されます.

もちろん,社会関係において何らかの信頼がなければ,取引関係を成り立たせないと思いますが,木庭先生は,そのような視点を,代理制度の理解や解釈の原理にまで高めます.

これに対して,アメリカ代理法を貫く原理は,そうした横並びの連帯ではなく,代理とは,本人のための制度である,という点にあります.いわば本人中心主義です.代理とは,代理人を利用することによって本人が利益を得る制度です.代理関係は,本人の代理人に対する支配(コントロール)によって特色づけられます.代理人が本人の支配・監督に服するという点が,隣接する制度ともいえる,信託の受任者や後見人と異なるところです(『アメリカ代理法』p.13,58).

木庭先生は,委任を重視し,代理を警戒しています.「代理は高度な概念であり,単なる手足の関係はなく,自由な主体間の関係である.にもかかわらず複数当事者が塊になったかのごとき誤解を生む(代理人が本人の手先のようになるか,本人が代理人の言うなりになる)危険と背中合わせである.ローマではだからこそ代理が忌避されたのであ(る)」(『新版ローマ法案内』p.193-4,脚注10).

そこには,代理に関する制度理解の無視できない対抗関係が現れているようにも思われます.一方においては,代理は単なる手足の関係になく,自由な主体の横一列の連帯の中で観念されており,他方においては,代理は本人の手足となり,本人の支配・監督に服する,あくまで本人のための制度であると理解されているーー.

また,上記に引用した判例は,何が代理ではないか(ふさわしくないか),という見方は提供するための素材なので,やむを得ないかもしれませんが,ローマ法における代理の在り方は,十分語られていないように思われます.委任の場合には「忠実義務と自己利益禁止義務を課す」(『新版ローマ法案内』p.107)とはされていますが,それが代理に転じたときに,いかなる内実を持った制度であるのかは,必ずしも明らかではありません.

これに対してアメリカ法では,代理とは,基本的に契約関係(contractual relationship)ではなく,信任関係(fiduciary relation)であるとされています(『アメリカ代理法』p.28,113).

木庭先生が,委任という契約(『笑うケース民法』p.109)が,「信頼のサークル」を前提としており,その中で機能するのという立場を取るのとは異なり,アメリカ法では,判例法を通じて,代理人に対して信任義務ー①忠実義務,②代理権の範囲内で行為する義務,③本人の指図に従う義務,④注意義務,そして⑤情報提供義務ーを課すことを通じて,信任関係を作り上げているということができます(同p.113以下).

ちなみに,代理関係に契約が入り込むことは認められており,その場合,代理人の義務とは,まずは契約上引き受けた義務となります.しかし,代理人は単なる契約当事者に留まらず,信任義務を負う者であるとされ,契約でも排除できない一定の義務を負うことが認められています.

代理制度のリスクや弊害はあるとしても,代理を必要とする本人ために,法(判例法に限らず,後で見る通り,制定法も含む)が助力するというアメリカ法の特色にも,見るべきものがあると考えます.

標語的にいえば,「誰のために代理は生まれた」ということですが,それは「信頼のサークル」にある横一列の連帯のため,というよりも,「本人のため」であるということができると思います.

代理権のカバーする範囲

アメリカでは,代理というものが,経済活動の拡大を背景としつつも,事業には限られない場面でも観念されています.

「代理制度は,本人が代理人をいわば手足のように使って自らの事業を,あるいはその他の生活関係を広げていくための法的装置」(『アメリカ代理法』p.112)とされている通り,その他生活関係を広げていくことも視野に入っています.あるいは,「他人のサービスを利用して,自らの活動範囲を拡大する」ためのものとも言われておりいます.

そこで利用される他人のサービス(代理人の行為)は,何も契約その他の法律行為に限らなくても良いことになります.

『アメリカ代理法』p.21では,つぎのような例が挙げられています.アメリカ法では,すべて代理法の問題となります.

①PがAに対し,自らの恋情をTに伝えてくれるように依頼し,Aは快諾した.AはPの代理人である.

②ある銀行は,すべての顧客がATM(現金自動支払機)の使用に慣れていないことを配慮し,顧客の現金の預入れや引出しを扱う窓口係を雇った.窓口係は,銀行の代理人である.

③ある法学部教授が,自らの論文作成にあたり,引用すべき判例のチェックをしてくれるよう助手に依頼した.助手が快諾したとすると,やはり助手は代理人となる.

以上,アメリカ法では,事実行為も含めて,代理制度の問題とされています.ローマ法では,「高速大量取引」のツールとして発展したという舞台背景が強調されていますが,アメリカ法では取引関係に限定されないところに,代理の幅広い機能を見てとることができます.

さらには,本人の能力が低下し,人の助けを必要とするときにも,代理が役割を果たす余地があります.

日本にもアメリカにも後見制度はありますが,機動性や柔軟性の点で問題があることは,日米共通のようであり,アメリカでは,制定法により,持続的代理権という制度が作られています(『アメリカ代理法』p.95).経済問題に対処するための持続的代理法と,医療問題に対処ための持続的代理法とが,別個に制定されており,時代のニーズに応えようとしています.

「信頼のサークル」の中で,本人に直接効果を帰属させない委任に重きをおき,直接契約関係の成立を認める代理を警戒し「便法」としての価値しか認めない,というアプローチでは,現代社会において代理が持つリスクの理解には役立つとしても,代理が果たしうる重要な役割を制限する可能性もあるということには,注意が必要かもしれません.

追認というユニークな性格

上で引用した「笑うケース民法」には,「信頼に基づいた高速大量取引がある.もちろん,そういう場合にも間違いは起こる.しかしおたがいさまだから追認してしまおう」という一文がありました.

「追認」とは,民法116条に定められていますが,「笑うケース民法」は110条の問題としか捉えておらず,116条には言及しないことから,ここでの「追認」の意味が問題となり得ます.

制度として,本人に代理人の権限外の行為についても責任を負わせ,追認があったものと「みなす」というくらいの意味かもしれません.しかし,なぜ制度的に追認を「擬制」するのか,特に論証はされていませんし,追認制度との関係を意識したように見えません.

アメリカ法では,追認(ratification)について,相手方の保護をねらうとするものとは考えられていません.追認しなければ,本人の責任は発生しないからで,制度の焦点はあくまで本人にあり,事後的な方向で,本人のための代理制度という趣旨を拡張したものと理解されています(『アメリカ代理法』p.86).

日本法でも,「たとえ代理権がない者による代理行為であっても本人がそれを拒まないのであれば効果を否定する理由はない」という消極的な説明はされていますが,本人のための制度趣旨を拡張したという積極的理由付けは,追認に関する具体的な問題処理にあたって,何らかのヒントになる可能性を秘めているかもしれません。

また,木庭先生は「おたがいさま」という言葉遣いをしますが,そこではやはり,本人-代理人-第三者(相手方)との「信頼のサークル」の「横断的結合」という視線で代理制度をみており,「本人のため」という制度理解とは細部において対抗関係にあるようにも思われます.

終わりに

今回,本当は3つの判例を取り上げることを予定していました.しかし,思ったより分量が多くなってしまい,本日はこちらで力尽きてしまいました.

一つは,「長すぎた芋蔓事件」(最判19-2-27)という,『現代日本法へのカタバシス』p.189,『笑うケースメソッド民法』p.106以下で扱われている,ゲーム機器の開発,販売を巡る,複数当事者の芋蔓のような関係が問題になった事例です.判例としては,「契約準備段階における信義則上の注意義務」が問題とされています.ネーミングはいまいちですね.

もう一つは,「配管工だろういばるな事件」(最判44-11-18)です.不法行為が問題とされています.こちらは多重下請ともいえる工事現場の中で,作業員の暴行の責任が問題となっています.

後者の判決は,不法行為ではありますが,アメリカ法では,事実行為も代理の問題とされており,代理の文脈でも問題になると思います.その点は他の回でも,取り上げたいと思います.

改めての木庭先生のアプローチで気になったのは,「すべては古代ギリシャ・ローマに通じる」という姿勢です.「現代の契約法の原基がローマで生まれたということは常識に属する」(『笑うケース民法』p.95)という一文にも現れる通り,政治,デモクラシー,法といういずれの営みについて,古代ギリシャ・ローマが専らの起源であることを主張してやまない,というのは極めて特徴的ではないか,と思います.

もう一つは,日本に対する「絶望」的な評価です.「近代の日本においては,政治システムと占有の両方の不全に悩む以上,ほとんど絶望的たらざるをえない」(同p.96)として,信義則/善意としての「bona fides」の再構築には,日本においてほとんど絶望的とされています.

しかし,このような断定には,留保を付したいという気はします.仮に,政治や法の起源は古代ギリシャ・ローマにある,という主張に執着することを許容しても,現実的な処方箋までも専有するものではない,という意味において.

◎12/23 追記

結局,本件ではアメリカ法ではどう処理されるのか,言及がありませんでした.私にアメリカ法(正確には各州法)に関して有権的に回答する資格はもちろんないので,あくまで私見となりますが,いわゆる「外観法理(apparent authority)」が問題になると思います(『アメリカ代理法』p.68).

そして,結論としては,代理の成立は認められないと思います.アメリカ法では,「外観法理(apparent authority)」の適用には,本人から第三者への何らかの表示・表明がなされる「胡椒の実程度の表明」(Peppercorn of manifestation)が必要とされますが,Yがaに,Aに交付する趣旨で白紙委任状等を交付したとしても,本人による(aへの)代理権の授与の表明とは言いがたく,aがYにそれを表示したとしても,第三者に対する表示・表明があったとは考えられないためです.

また,外観法理による代理権成立のためには,第三者の信頼が,合理的なものでなければならないとされています.その趣旨が曖昧な場合,第三者にも調査義務・問い合わせ義務が生ずるとされています(同74頁).本件でも,白紙委任状の意義を問い合わせる必要があると思われ,そうしなかった原告の信頼は,合理的なものではないと考えられます.ここにも,あくまで「本人のための制度」という性格が現れているように思います.

社会制度を単純に比較して優劣を論ずることはできませんが,大陸法の特色としては,民事法のような基本的な法分野においても(例えば民法109条と110条のように),かなり抽象度の高いルールが定められます.そうすると,今回の判例のように,その適用の前提(立法事実と言っても良いかもしれません)が必ずしも明確ではなかったり,重畳適用のようなやや法技術的な手法に流れてしまう,という憾み(うらみ)があるように思います.

木庭流のアプローチは,そのような問題に対して,単純な沿革論でもなく,ローマ法への参照を通じて,ルールが成立(適用)される社会構造に目を向けるという,有意義な試みであると思います.他方で,英米法のように,判例として具体的な事例が蓄積され,その中から判例法理が抽出され,あるいはリステイトメントが作成されるというのもまた,適用の前提条件や制度の趣旨が伝達される(あるいは発展する)仕組みが法の営みの中に組み込まれている(ビルドインされている),適応能力の高いアプローチであるように思います.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?