私は"禁断の実"を食べた

「人類はなぜ神を生み出したのか?」という本を読んだ。私の両親は敬虔なクリスチャンで物心ついた時から神は当たり前にいるものとして育ってきた。だからこの本に興味を惹かれた。

この本には人類の歴史の中で神の在り方がどう変化していったのか?や人間は最初から魂の概念を持っていたという話、心の理論によって霊的な存在を自分と似た感情を持つものとして人格化する傾向がある事が書かれていた。人間は人心を支配するため、自分を慰めるために絶対的な存在である筈の神の形を自分達の都合で変化させてきた。神が人間を創造したのではなく、人間が神を創造してきたとも言える。

神とは一つの概念だ。その概念を持つ人が持たない人にそれを説明することは難しい。

私の中にも概念としての神が在る。だけど私は神の手を離し、自らの信念に従って判断し行動する事を選び今ここにいる。これは持論だが旧約聖書に出てくるエデンの"善悪の知識の実"の象徴するものは自我の覚醒だと思う。善悪を自分で判断し行動すること。それまでアダムとイブはなぜ自分が存在し、ここにいて、しかも裸でいるのかを考えなかった。そこには自分の意思も欲求もなく、ただ神の言いつけに従い禁じられた事を守っていただけ。与えられるものだけ受け入れリスクも悩みもなかった。"実"を食べた2人は突如裸でいることを認識し自分達で身を覆うものを作る。初めて自ら考え判断する事を覚えた。

自分で決定する事にはその結果に対しての責任が生じる。何かのせいにする事も何かに縋る事も出来ない。「貴方の御心のままに。貴方のご意志に従います。」神とは都合の良いものだ。神の意志を大義名分として、全責任を神に転嫁する。そして自分よりも大きな存在の懐に抱かれ守られる安心感。神とはそうした人間の弱さが創り出したものだと思う。(本当はこの本にこういった心理的解釈を期待していた笑)

私はこうした生き方に抵抗を感じ神から離れる事になったが、一度心に生まれた概念を完全に消す事は難しい。重大な選択を迫られた時や善悪の判断をする時、私は自分の中に神の存在を感じる。道徳的に正しくある事、正直であり、悪に悪を返さない事、公正である事、受けるより与える事に喜びを見出す事。幼少より刷り込まれたそれらの考え方は私の判断に大きく影響する。神は全てのものに偏在するとは恐らくこういう意味かも知れない。言い換えればその人の心そのもの。心の中に神がいる事と宗教を信仰する事はまた別の話だ。

本書の結びにこうある。「アダムとイブの神話を教訓に禁断の実を食べたらよい。神を恐れる必要はない。あなたは神の仮姿なのだから」

人は自ら考える事を放棄してはいけないと思う。禁断の実を食べて各々が自分の良心に従い、判断し行動すればいい。神は神に従わない選択肢も善悪の知識の木を用意した時から(禁じていたとはいえ)与えていたのだから。

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