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のび太くんはルールメイキングのモデルとなるか?法学者・稲谷龍彦と批評家・杉田俊介が考える、「弱さ」を包摂するアーキテクチャ設計

わたしたちが「民主主義」という言葉を使うとき、無意識に「強さ」を求めてしまっていないでしょうか?

政治リテラシーを高め、正しい情報を手に入れ、適切な意思決定をする──「投票に行こう」と呼びかける言葉には、そうした主体たることを暗黙のうちに要求する考え方が潜んでいるように思えます。

もちろん、よりよい民主主義の実現に向けて、個々人が妥当な意思決定をできるようリテラシーを高めることは必須です。マイノリティであるがゆえに、「弱い」立場に追いやられてしまっている人々が、「強さ」を持てるよう支援することも必要でしょう。

しかし、わたしたち人間は「弱い」存在であることからも逃れられません。他者のケアなしには生きられない人々が多くいるのはもちろん、ときには怠惰な時間を送りたくなったり、判断を誤ったりもします。能力主義や画一的な心身の健やかさ観をベースとした「強い人間像」ではなく、そうした人間の「弱さ」を前提とした民主主義を考えることはできないか──?

そんな問題意識から、「公共とデザイン」はトークイベント「弱さから考える民主主義」を開催しました。ゲストにお招きしたのは、「強い個人」を前提とする近代法学のオルタナティブを探求する法学者・稲谷龍彦さんと、『ドラえもん論──ラジカルな「弱さ」の思想』『非モテの品格──男にとって「弱さ」とは何か』『無能力批評』など「弱さ」を切り口に幅広い言論・執筆活動を展開してきた批評家・杉田俊介さんです。法律と人文学、まったく異なる切り口から活動する二人は、「弱さ」を媒介にどのような化学反応を引き起こすのでしょうか?

ゲストプロフィール

稲谷龍彦(いなたに たつひこ)

京都大学大学院法学研究科教授及び理化学研究所革新知能統合研究センター客員研究員。専門は刑事法。現在の主要研究領域は、科学技術と法及び企業犯罪対応。主要著作として,(単著)『刑事手続におけるプライバシー保護』(弘文堂 2017年),(共著)『アーキテクチャと法』(弘文堂 2017年),(共著)『AIで変わる法と社会』(岩波書店 2020年)などがある。

杉田俊介(すぎた しゅんすけ)

批評家。1975年生まれ。川崎市出身。著書に『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』『非モテの品格――男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)、『ドラえもん論』(Pヴァイン)、『無能力批評』(大月書店)など。

「強い個人」を前提とした民主主義からの脱却

イベントは、ゲストそれぞれによる問題提起からスタートしました。まずは稲谷さんが、法学や制度設計の観点から、「強い個人」を前提とした民主主義像に疑問を投げかけます。

稲谷「今までの民主主義は、それ以上還元・分割できない“individual”としての強い個人が、どんどん自分の意見を確立し、主張することで参加するタイプのもの。それはうまくいっていないと感じますし、結果的に社会として非常に脆くなっていると思うんです。もうちょっと弱くて、さまざまな要素が混じり合った人たちが、うまくつながり、よりよい社会を作っていくためのシステムとして民主主義を考え直してみたい」

「強い個人」というドグマを古典的に主張していた人物として、稲谷さんは18世紀の哲学者エマニュエル・カントを挙げます。理性と自由意志を働かせ、正しく判断し行為することで、社会や国家が成り立っていく──カントは現代の民主主義の基盤となる、こうした社会モデルを確立したのだと言います。

それを批判した代表人物として、続いて引き合いに出されたのが、主に20世紀後半に活動した哲学者ミシェル・フーコーです。身分ではなく、理性と自由意志にもとづく判断・行動によって構成された社会は、一見すると不平等を解放していながら、実は構造的な差別を増幅させていたのではないか──フーコーはそう喝破しました。国家が想定する「強い個人」に含まれないマイノリティは、社会全体の問題を一手に押し付けられ、矯正や処罰の対象になる。結果として「強い個人」とそうでない人たちの分断は進み、社会システム全体の問題は解決されないままになるというフーコーの議論を、稲谷さんは紹介しました。

そしてフーコーが指摘した問題点を乗り越える、オルタナティブな方法論の提案者として稲谷さんが挙げたのが、現在も活動中のフランスの哲学者/人類学者ブルーノ・ラ・トゥールです。

稲谷「ラトゥールは、人間の判断や行為は、さまざまな人やものとの関係性の中で生まれるのだと言っています。人間以外の存在も含め、相互に依存しながら存在する人々が、納得し合って共存するための枠組みづくりに集中する。そうすれば、『強い個人』なしでも全体の問題には適切に対処できる、しなやかなつながりを生み出せるのだと」

その一つの具体例として、稲谷さんはオードリー・タンの活動に代表される、シビックテックの取り組みを挙げました。テクノロジーを活用することで、多様な状況に埋め込まれている人々の意見を取り込み、法やシステムを改善していく仕組みは、これまでの代表選挙制では取りこぼしていた声をすくうことにつながると言います。

稲谷「最も重要なのは、間違う可能性があることをみんなが受け入れ、間違いを許せる状況を作ることです。私もあなたも、誰かがいないと生きていけないし、我々はみんな間違う存在である。それをきちんと受け入れたうえで、なるべく多くの人たちが参加できる民主主義の仕組みを作っていくべきです」

稲谷さん


いま必要なのは、のび太くんをモデルとした“ケアリング・アナーキズム”だ

続いて、杉田さんの問題提起です。杉田さんは人文学的な視座から、「弱さ」をめぐる思想状況を整理してくれました。1970年代の障害者当事者運動の影響も受けつつ、昨今は「ケア」を必要とする弱い主体として人間を捉える機運が、高まっているのではないかと杉田さんは指摘します。

2021年7月に刊行された『ケア宣言──相互依存の政治へ』では、誰かに依存する「依存的主体」によるケアリング・デモクラシーが提案されました。社会活動家の湯浅誠は、自立を家族や地域に支えられた「溜め」と表現し、自身も脳性麻痺という障害のある小児科医の熊谷晋一郎は「自立とは依存先を増やすこと」と主張します。自身も重度障害のある子どもの親である哲学者エヴァ・フェダー・キティは、「乳幼児期や子ども期、高齢期や病気や障害のあるときなど、人間にとってそもそも依存している状態のほうがむしろ当たり前。それなのに現代は、そうした状態の人々のケアに従事する労働者のほうが、誰かのケアに依存しがちだ」と問題提起していると杉田さん。

他方、2010年代は#Me Too運動のようなハッシュタグ・アクティビズムやポピュリズム政治に象徴されるように、わかりやすい敵対性や差異によって政治的な議論を活発化させるラディカル・デモクラシーの時代でもありました。そこではマイノリティの政治が全面化し、「自分たちのほうが弱い」という「弱さ」をめぐる争いが激化。そうした「弱さ」の簒奪による限界を乗り越えるものとして、杉田さんは「アナーキズム」を再評価するトレンドに着目していると言います。

杉田「アナーキズムと言っても、国家を完全に廃絶しようという過激なものではありません。有名なアナーキストの高祖岩三郎さんは、アナーキズムの基本原理を『自律』『自由な連合』『自己組織化』『相互扶助』『直接民主主義』などに見ています。上から強制的に秩序やシステムを押し付けられるのではなく、人々が下からの合意形成で自生的な秩序を形成していくという意味でのアナーキズムが、近年注目を集めているのです」

昨今、人文系領域で「利他性」「エンパシー」「中動態」といった概念が注目を集めているのも、そうしたアナーキズムへの再評価と軌を一にしているのではないかと杉田さん。こうした概念は病者や障害者、依存症患者といった、ある種の「弱さ」を抱えていると思われている主体をモデルにしており、それが「下からの秩序形成」とリンクすると言うのです。

さらに杉田さんはこうした新しいアナーキズムを、戦後日本を代表する国民的漫画の一つである『ドラえもん』と結びつけて語りました。出木杉君に象徴される、合理的で優等生的な人間のモデルではなく、のび太くんのような、愚かさがあって非合理で、無知無能な人間をモデルに社会を構想することが、必要なのではないかと。


杉田「何回も何回も同じ間違いを繰り返してしまったり、すごく意思が弱かったり、他の人ならできることができなかったり、すぐ人に頼ってしまったり……そんな主体が、戦後民主主義の可能性として出てきている。これは昨今出てきている、『弱さ』を抱えた主体を前提としたデモクラシーにもつながるのではないでしょうか。弱い人間どうしの相互扶助的な関係の中から、新しい秩序がいかにして立ち上がってくるのか──いわば“ケアリング・アナーキズム”の可能性を考えることが、今求められていると思うのです」

杉田さん

弱さとはなにか?「固い依存」から「相互依存」へ

杉田さんの問題提起を受けて、「領域が違うだけで、とても似たようなことを考えていると感じた」と稲谷さん。ここからは二人の問題提起を踏まえたトークセッションに移ります。

最初のテーマは、「弱さとはなにか?」。杉田さんによると「弱さは案外、哲学的にはしっかり定義されていない曖昧な概念で、だからこそ難しい」。

そんな中で稲谷さんは「その人だけで何もかも調達できる、完結したものとしての『強い個人』」と比較しながら、「弱さとは、自分自身だけでは閉じられないことなのではないか」と仮説を提示しました。これに対して杉田さんは、2021年8月に刊行された小川公代『​​ケアの倫理とエンパワメント』で論じられていた、さまざまな領域に自分の存在が流れ出してしまう「多孔的自己」という概念との共鳴を指摘。すると稲谷さんは、問題提起パートでも引用したラトゥールを引きながら「弱さ」の価値について語りました。

稲谷「ラトゥールは、我々はモノも含めたネットワークの中の結節点として存在している、という世界観を持っています。そこで我々の存在の確かさは、つながっているネットワークの多さに依存するという言い方をしているんです。今日の話に引き付ければ、弱い主体であるからこそ、そうした多様なネットワークのつながりの中に自分を投げ込めるのではないでしょうか」

ラトゥールの議論としては、主体/客体、人間/自然といった二項対立を超え、動物や機械も含めた脱中心的なネットワークとして社会を記述する「アクターネットワーク理論」が有名ですが、杉田さんはそれとアナーキズムの類似性を指摘しました。

すると議論は、政府のSociety5.0で主導され、稲谷さんも旗振り役を務める「マルチステークホルダー・アプローチ」にもつながります。マルチステークホルダー・アプローチとは、例えば自律飛行ドローンを飛ばす際に、該当地域の住民や動植物、建築物に配慮することでプロジェクト推進をしやすくするというもの。これはまさに、ラトゥールのアクターネットワーク理論と、社会設計の議論との接点だと言えるでしょう。

こうした議論を受けて、杉田さんは「依存は二種類あるのではないか」という考えにたどり着きます。

杉田「構造的に弱い立場の人が、自分より強い立場の人に依存せざるを得ない『固い依存性』と、それぞれの立場の違いの中で、お互いをネットワークの中に巻き込み合って対等な関係で依存し合う『相互依存性』の二種類があるのではないでしょうか。前者を後者に切り替えていくことで、弱いと思われていたものが、ネットワークの中におけるいちプレイヤーになっていく。結局、弱さとは一方の極にいる弱い人が他方の極にいる強い人に支配されることであり、そうなると完全に自己否定のブラックホールにはまり、支援も社会的包摂も届かなくなる。これまた支配的な構造をはらむ全体主義的な福祉に陥らず、どう相互依存ネットワークのアナーキズムに持っていけるのかが、カギなのではないでしょうか」

単一尺度の、グロテスクな功利主義を回避するために

ただし、人やそうでないものも含めたネットワークとして社会を捉えていく発想には、ある種の危険性もあると杉田さんは指摘します。

杉田「人間と機械や動植物を等価に捉える発想は、命というものを軽んじる考え方に陥りやすいと思うんです。それらを全て数字にならして、功利主義的に損得計算をしていくと、『動物の命をたくさん救ったほうが、重度障害者を生かすよりも社会的利益が大きい』といったロジックも成り立ってしまう。その危うさは常に作動していると思うので、そうしたグロテスクな考え方と区分けする民主主義的な努力は常に必要になると思います」

稲谷さんは、そうしたグロテスクな功利主義が出てくる要因として、「根拠がよくわからない、単一の抽象的な尺度が支配的になること」を挙げます。1980年生まれの稲谷さん自身、かつては「テストでいい点数を取り、いい大学に行き、いい会社に入ること」を「正しい生き方」とする尺度の強さを痛感していたそう。そうした単一の尺度に支配されないためには、外れることや間違いを許容し、何度でもやり直せる社会システムと価値観が必要だと言います。

これに対して、杉田さんは「間違ってもいいシステムを作るのは本当に大事」と深く同意。そして、そうした単一の尺度に寄りかかってしまう要因として、複雑性に耐えられず、認知限界がある人間の「弱さ」を見出します。

杉田「人間はなかなかプロセス思考ができず、いろいろな失敗や間違いを繰り返しながら成熟したり変わっていったりするということを認識できないんです。例えば『ドラえもん』だって、時代に応じてどんどん作品の世界観が変わっているのに、『のび太くんがしずかちゃんのお風呂をのぞくシーンは性犯罪だからそれだけで許せない』という人がたくさんいる。ある側面だけが気になって、そこだけで全否定してしまうような弱さを、人間は抱えていると思うんです。複雑な物事に耐えられず、簡単なところで自分を被害者に位置づけたり、逆に敵認定したりしてしまう」

稲谷さんもこれに同意し、「成熟や変化というものを、素直に信じられなくなりはじめているのではないか」と続けます。

稲谷「間違っていても話し合えばみんな変わるという考え方になかなかなれず、間違ったことを言ったら、根っからダメなやつだとみなされてしまう。それで相互不信が行き着くところまで行ってしまい、信頼を育めないシステムになっているのが今だと思うんです。冒頭でお話しした、完全に自己完結した『強い個人』像にとらわれていて、そうなっていない人は自分であれ他人であれ許せず、叩き合いになっているとも言えるかもしれません」

ただ、ネットワークの中の「弱い」個人を前提とした社会システムを構想するとはいえ、「自分」から完全に逃れることは難しい。しかし、それを踏まえたうえで、「強い個」でも完全なネットワークの一部でもない、ほどよい結節点を見つけるしかないと、稲谷さんは言います。

稲谷「我々は有限な存在で、認知資源にも限りがあるので、“我”を完全に捨て去ることはできないと思います。できないなりに、せいぜいその場その場で一生懸命考えながら、切り抜けていくしかない。『強い個』を前提としないカルチャーを作り、さらに自分たちは有限であるというメタ認知を持って、少しずつほどよいバランスを探っていくしかないのではないでしょうか」

杉田さんもこれに同意しながら、親鸞の考えを引いて応答しました。

杉田「完全なネットワーク思考もできないし、完全に閉じることもできない。親鸞はまさにそういう考え方を認めた人で、『何年修行しても悟りの境地に達せない』と悩む弟子に『自分もだよ。どうしても我執に囚われてしまう業の深さを認める人間にこそ、他力の光が差し込むんだ』と言うわけです。完全にネットワーク思考になったら、それはもう人間を超えた何かになってしまいますし、“我”にとらわれてしまうことは認めていいのではないでしょうか」

弱さを認めるために必要な「中間領域」

人間の「弱さ」を前提とした、相互依存ネットワークのアナーキズム。グロテスクな功利主義に陥らずに、そうしたオルタナティブな民主主義を実現するためには、どうすればいいのでしょうか? 稲谷さんは法律面での一つの突破口として、「修復的司法」という考え方を紹介してくれました。

稲谷「責任の向け方を変えていくことはとても大事です。現行の法は基本的に、何か問題が起きたら犯人探しをして、その犯人だけを糾弾する構造になっていますが、それだと根本的な問題解決にはなりにくい。同じ問題を繰り返さないためには、起きてしまった被害に対して誰がどう償いを果たし、より良い社会に向けて誰にどう変わってもらうべきかを本当は議論すべきで、それを体現したシステムが『修復的司法』です。犯罪を起こした人、被害を受けた人、その人達が存在するコミュニティの関係性を将来に向かって修復することを前提に司法を使っていくアプローチです」

これはもともと日本から生まれたものだと言います。犯罪発生率がとても高かった高度経済成長期の日本は刑が今より軽く、その代わり社会全体で支えていこうという発想が強かったそう。それを見て感銘を受けたオーストラリア人が、自国に持ち帰って理論化したのが修復的司法だと言います。しかし日本ではそれ以降、いわゆるネオリベラリズム的で個人の責任が強調される状況になるにつれ、修復的司法のような考え方は失われてしまいました。

稲谷「今、新しいテクノロジーやステークホルダーとの関係性の中で、修復的司法のようなプラクティスをもう一度我々の社会に取り戻すべきです。そのためには、『弱さ』を認め、お互いに思ったことを正直に話し合うことが必要不可欠。みんなが不完全で相互依存しながら生きていることを認め、お互いの話に耳を傾け合うからこそ、将来のより良い関係性に向かって議論ができるし、許しにもつながるのだと思います」

杉田さんは、お互いに弱さを認め合いながら学び直す状態を実現するためのヒントを、精神障害のある人々などが当事者で集まって自分たちのことを研究しあい、その蓄積を自身の症状と向き合うために使っていく「当事者研究」的な実践に見出します。

杉田「男性同士が自分たちの意識や生活を変えていく『メンズリブ』にも通ずるところがありますが、自己完結せずにさまざまなネットワークにひらかれていくことは、自分一人ではできない気がするんです。当事者研究のような場をいくつも作っていく中から、変わっていくものなのではないでしょうか。グローバル資本主義の中で足元がどんどん流動的になり、特定のなにかに依存することでなんとか自分を持ちこたえようとしてしまう今、こうした個人的でもあり社会的でもある中間領域、新しい秩序を創発していくアナーキーな場を増やしていくことは大事だと思うんです」

弱さを認めるということは、決して簡単にできるものではありません。また、認める/認めないにかかわらず、構造的に弱い立場から抜け出せない人々も多くいます。しかし、今回のイベントでも繰り返し論じられてきたように、「強い個人」を前提とした社会設計は耐用年数を過ぎているのもまた事実。今必要なのは、弱さを認める強さ──いや、弱さを認めても受け入れてもらえる社会設計なのかもしれません。

(取材・文/小池真幸)


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