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祖父の話

 昔々、明治の終わりごろ、九州、長崎の田舎のそのまたさらに田舎のお百姓さんのお家に男の子が生まれた。男の子は正人(マサト)と名付けられた。正しいことをするように人、正しい人であるように、人に迷惑をかけず誠実な子に育つように、そんな願いを込めて名付けたのかもしれない。マサトは、頭が良く利発で美しい青年に成長した。

 マサトは、末っ子であった。時代は明治、家長制度でガチガチの時代である。平成の現在では家長が死んだら家や遺産は、妻に半分、残りは子供たちに平等に分配するのが当然とされるが、当時はもちろんそんなこともない。家長が死ねば、後継者であるべき長男が全てを継ぐ。他の子供たちには何も与えられないのが普通である。特に農家は、家・田畑が主要な財産。それを一つもいただけないとなると、もはや生きていくすべはない。したがって農家に生まれた長男以外の子供たちは、自ずと商人の家に丁稚奉公に出されたりしていた。マサトもその例に漏れず、田舎を出て長崎市内へ身一つで働きに打って出た。もともととても賢く、努力家だったマサトは、どんどん働き財をなした。最初は、身一つでリアカーを引いていたところから、長崎の市内の一等地に店を持つほどまでになった。マサトは、長崎市内の一等地に銭湯を建て、そこを宿屋にした。修学旅行やたくさんの団体客を泊まらせて店はとても繁盛した。いつも銭湯に来ている愛想がいい女性との縁組も決まり祝言を挙げた。男女6人の子供にも恵まれた。誰が見ても順風満帆。時代は昭和になり、戦争が始まったが、すでに中年だったマサトに召集がかかることはなく、そのまま働き続けることができた。台風か敵の襲撃か何かで港に打ち上げられた大量の昆布を目ざとく見つけて拾いに行って、銭湯の大浴場で一家総出でジャバジャバ洗い、浴場用のでっかい扇風機で乾かして闇市に持って行ったら高値で飛ぶように売れてうまいこと儲かった。マサトには、そういう機敏な商売の嗅覚と行動力があった。

 その後、長崎へ原爆が投下され、町は一面の焼け野原になった。マサトが経営している銭湯も被害を受けた。しかし、やはりここでもマサトはへこたれない。マサトは、戦後 長崎に在中するようになった連合国軍・通称「進駐軍」と呼ばれる連合国軍の兵士たちの詰所に行き、幹部を接待、仲良くなり、たくさんの仕事をもらい、逆に大儲けしてしまう。戦後成金というやつなのだろうか。

 マサトは、死ぬまでアメリカ人のことを「進駐軍」と呼び中国人のことを「シナ」と呼んだ。別に悪気は、ない。明治生まれの普通の九州男児の世界観・常識だと日本は「大日本帝国」で中国人は「シナ」なのだ。祖父は、明治生まれの、外国にも行ったことがない九州男児としてごく普通の差別的な目で外国や外国人を見ていた。しかし、そんな祖父には「ただ金のあるところに稼ぎに行くのみ」みたいなシンプルさが、あった。それが、自ら意識せずしてマサトを国際的なビジネスマンに仕上げちゃっていた。たとえ昨日まで敵だった連合軍でも関係なく頭を下げる。英語が話せないばかりか、尋常小学校しか出ていないコンプレックスはどこかに放り投げてガンガン、「言葉は、わからんけん、とりあえずもてなしとけばよかろう」とばかりに、酒池肉林で一家総出で宴を開き接待する。そして仕事をもらう。目的があったら、そのほかのことはあんまり気にしないで目的遂行のために躊躇なく食らいついていく俊敏さと行動力とこだわりのなさは、一文無しで田舎から出てきた彼を大成功させた。

 

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