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剥ぎ取れないなら溶かすしかない

物を覚えられなくなった。言葉が出てこなくなった。あんなに好きだった書くことができなくなった。ずっとそう思っていたけれど、こうして書き続けていたら、少しずつ解消してきた気がしている。思い当たるのは、長く外に出ない休みの間に本などの「人が書いたもの」や「人の考え」に触れる機会が増えたこと。

そうか、足りなかったのは自分に「入れる」ことだったんだ。逆に自分から「出す」ことをしなかったから、「入って」来なかったんだ。そう、気が付いた。

自分の頭のキャパなんか高が知れてて、若い時に使い切ったんだなとばかり思っていたけれど、こうして頭ひねって(これでもひねっています)見たことでさえも言葉を選んで出していくことで、ところてんの如く入れる余白が少なからずできてくる気がする。出すことがスムーズになれば、余白の生まれるサイクルも効率が上がるだろう。上がると信じたい。

*  *  *  *  *

私なんかがまだここにいていいのかなと思って早何年経つだろう。頭の隅の隅にこびりついた、幼い主に傷をつけた悲しい出来事の記憶となってから、何年かに一度急に引っ張り出されたり、また奥へ押し戻されたりを繰り返している。もう、私は出て行ってもいいのだけれど、主は私を留めている。

同じように長いこと仕舞われている喜びの記憶は、音楽や香りともつながって、度々主を生き返らせる。きっと主が止まるまでここに留まるのだろう。

日々体験を増やす中で、入っては消える記憶がここを通る。少しだけ残るものもあれば、さっきまでいたのにもういなくなっているものもある。私は主にとって一番いらないものなのに、何故だろう。私が引きずり出されるのは、辛いときばかりなのだから、いっそ消してくれたらいいのに。

ある日、ここを一つの学びが訪れた。学びは私の手をとって、つぶさに私を確認した。そしてうなづきながらやさしく問いかけた。本当は何を望んでいるの。どこへいきたいの。それでも何故生きているの。

すると私と真逆の喜びが近づいてきて、私を覆うように抱きしめた。懐かしい音楽、いい香り。私は自然と涙が流れて、はらはらはら力が抜けた。かちこちだった体が溶け出し透けてくる。定位置だった隅の隅に小さな穴が見えてきて、長い間に溜め込んだ私のかけらが砂になってさらさらと抜け出てゆく。もうここにいなくていいんだ。そんな思いが私に初めて沁みだしてきた。

主の学びが悲しみを溶かし、喜びのふくらむ余白を作った。

私はうれしかった。消えたことすら知らずにいてほしい。

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