青春ゾンビはユメをみる


早朝の朝陽がまだ眩しくて、noteを更新しようと思う。スマホの画面の生暖かい光が心地よい朝。
青春ゾンビはユメをみるというタイトルが相応
しい文章を書こうと思った。

青春ゾンビとは、青春時代にやり残したことや思い出に執着し、執われ続けている人や状態を指す。

かつてのBaseBallBearの楽曲に登場する少女はまさにそんな青春のゾンビの心象世界であるかの如く儚さと繊細さを兼ね備えたユメ、のような存在だった。

さて、そんな青春ゾンビについて思うことがあるのかというと、やはり私たち大人になりきれていない大人が視る世界に考えることがあるからである。

僕が臨床心理士として、公認心理師として現実世界で生きる中、心理士レインは或る意味虚構の世界を危ういバランス感覚で滑走している。
この場合滑走という表現が言い得ているし、我ながらクスリときた。臨床心理士は薬の処方はできないのだが。

着地するのか着陸するのかは定かではないが、
滑走路の上を多少の無理を承知で駆け抜けている。 

YouTubeという媒体にユメをみている。そんな虚構の存在はYouTuberを名乗る。
もう一人の自分は問う。
「やりたいことは何だ?欲しいのは金か?名誉か?地位か?女か?」

この問いに皆ならどう答えるのだろうか。


僕はきっとこう言う。

「チャンネル登録者がたくさん欲しい」

もう一人の自分がすかさずツッコミを入れる。
「さすがにスモールステップ過ぎるやろ。その先や、その先に何を観ているんや」

革命家はユメを観るものだって木下理樹氏も歌っているけども、世界に革命を起こしたいのだろうか。

臨床心理士の自分、現実の自分は不満を募らせる。生きるべく人が命を断ち、救うべき人のもとへは制度やルールの壁に塞がれ歩み寄れない。

世の中がもっと他者に関心を持ち、自分自身のココロにも優しくなれる社会であってほしい。

そのためにも、カウンセリングという空間が気軽に足を運べるような社会になれば、皆がもう少し楽に生きることができるかもしれない。

無論カウンセリングは始まりがあれば終わりがある。
終わりなきカウンセリングをカウンセリングとは言わないと思うから。
だからこそいつでも始められて、そして終わりらまた困ったら足を運ぶ。そんな困ったときのなんでも屋になれたら良いなと考える。


「まずは、YouTubeって媒体で好きなことを話し遊び、その延長戦上で何か面白いことができたら良いなって思う」

世の中の、臨床の中での心理学やメンタルヘルス、または発達障害などへの認知や理解は少しずつ浸透しつつもまだまだ広く知られているという訳でもない。
だからこそ、偶然の知る機会が虚構の存在レインからであっても良いのかなと思う。

心理士レインが見上げる空は青い。しかし、その眼はゾンビのそれに比べたら澄み切っているから問題ない。




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