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母語は精神分析だけど居住地は精神分析じゃないかもしれない

 先日、思い立ってPCAGIPの本を斜め読みした。

 開業に当たって、地域の心理職のキャリア形成の支援もできたら…と考え始め、まずは近場でフラットな関係でケースについてあれこれ話せてスッキリするような、支援者支援が目的の集まりをグルグルと考えていた。とはいえ、これまで集団療法に関わったことがない私、もうちょっと基礎知識必要…と思ったのである。で、読んでて、赤べこ状態だった。そうそう、これ!私がやりたかったのはこれなのよ!と。
 読みやすいので、関心がある方はぜひ手にとってもらいたい。PICAGIPとは、簡単に言うと、エンカウンターグループの技法を援用した事例検討の方法である。従来のやり方を見直し、いかに事例提供者の益になるかを考えられた方法である。これなら私にもできるかも…?赤べこだったのは、「事例提供者の益になるように」が最大限発揮できるようにと、様々な配慮がされていて、その配慮が本来の目的に集約されるような仕組みになっていること。
 ベースになっている来談者中心療法は精神分析から派生した(ここの表現の仕方はとてもセンシィテブであるのは理解しているけど言い表現が思い浮かばず…)技法だから、大学院での基礎訓練が精神分析的心理療法が中心だった私には親和性があるのかもしれないし、シンプルで分かりやすいのが使い勝手がよさそうと思えたのかも。精神分析理論は人間理解にとても役立つし、私の性格に合っていると思うけど、実践となるといろいろ難しさを感じる。
 そもそも、「精神分析」の訓練を受けていないし、実践もしていない。乳幼児観察や教育分析は分析家になるための重要なトレーニングだけど、どちらも未実施である。理由は明瞭で、時間と金がない、そして実践もしていない。週に複数回のセラピーに時間とお金を割ける人を対象とした施設で、臨床活動をしたことがない。精神分析学会にも所属していない。ただのモグリの精神分析フリークと言われれば、まぁそうですねと言うしかないけど、精神分析的視点は大事にしているつもりだし、長年対象関係論のバイザーにスーパービジョンを受けているから、支持する学派を聞かれれば「精神分析、特に対象関係論です」と答えるしかない、他にそう言えるほど系統立てて学んでいないから。
 修了したてのころは、他に拠って立つものがないから、とにかくテンプレのように精神分析的心理療法を実践しよう!と躍起になっていた。それはそれで、自分の軸を形作るために必要な考えなのだけど、今考えるとやっぱちょっ堅苦しいし面白くない。ここ数年は、面接の中で自分らしく振る舞うことが多くなったし、それもあってかより一層臨床を楽しめるようになった。それば精神分析の理論の枠に自分を押し込めるのではなく、自分が理論を使ってクライアントや起こっている事象を理解しようとしているからなのかな、と思う。
 研修生時代に、幸運にもイギリスのタビストックセンター見学しに行ったことがある。オカルト好きには「戦時中に心理実験をやってたとこだ!」と知られているようだけど、ちゃんとした精神分析のトレーニングと実践の専門機関なんですよ、言わなくても知っている方がほとんどだと思いますが。余談ですが、「タビストックは人体実験をする恐ろしい場所」という見方は、オカルト好きな私的には面白い見方だなと思って、一般の人から見るとそうなるかーと腹抱えて笑ってしまった。話を戻すと、そのとき「理論を使って人を理解している!」と、いたく感激した。当時の私はまだ理論を学び始めたヒヨコちゃんだったし、一方タビストックセンターで学んでいる方々は、研修生と言えどすでに様々な領域の専門家(心理職以外でも医師、看護師、社会福祉士などの対人援助職を本業とした方々がトレーニングを受けていたと思う)なので、当然と言えばそうかもしれない。とにかく理論は使うものなんだ!と、大事な姿勢を学んだ。
 翻って、ちょっと前の私は「精神分析的心理療法を正しく実践できているか」に重きをおいていたところがあった。自分の実践に自信を持てないことや、ちゃんとトレーニングを受けていないことへの罪悪感ゆえそう考えていたのだろうけど、今思うと「かったいなぁ」と思う。それでも「クライアントの益になることを」というのが一応ぶれずにあったから、何とかやってこれたところがあったのかもしれない。精神的にはまあまあキツかったのかなぁ…。入院したり面倒なトラブルに巻き込まれたりして、一旦立ち止まって自分の行く末を考えているときに、『日本のありふれた心理療法』を手にする機会があり、目から鱗がボロボロ落ちまくった。日本人の悪い癖とも言おうか、「欧米のものは素晴らしい、だからそれをそのまま実践するのがベストだ」という考えが、未だに根強くあるのかもしれない、と思うと同時に、私たちが日常で行っている名もつけられない臨床活動には、もっと価値があるのではないか、と感じたのである。私にとって、コペルニクス的思考の転換であった。
 研究活動と臨床活動は、心理臨床家の両輪の和だ。これに加え、「人間的成長」が大事な要素と言われているけど、実は専門書にはあまり書かれていなかったりする。暗黙の了解というか、それはごくごく当たり前なことなので書くほどでもない、というか。でも、そのごくごく当たり前なことが、実はとても重要で、基礎がなければいくら豪華な装飾を施したって、何かあったら容易に崩れてしまう。そして、臨床心理士には、臨床活動と研究活動の両方をひとりの人間に求めているけど、これは普通の人生を歩もうとすればするほど、難易度が上がる設計にも思う。専門家だからしょうがないじゃんと言われればそれまでだけど、家庭を持ち子を育てることや、ひとりの人間として地域で暮らすことを、もっと大事にする必要があるのではないか、と思うのである。「人は人との関わりの中で成長していくものだ」という大前提は、もっともっと大事にされてもいいのではないか。多くの臨床家は、一般市民として生活する「普通の人」である。それなしに、研究活動や臨床活動は存在し得ない。そして、研究活動と臨床活動を両立できている臨床家も多くはない。業界全体でそれが成り立つように、それぞれが協力し合う必要があるのではないか…。
 自分らしく臨床活動をすることは、究極的な理想だ。「自分らしく」がちょっとでもぶれると「自分本意」になってしまい、それはクライアントの益になるどころか害になってしまう。その微妙な匙加減をするために、さまざまな理論に触れたり学会や研修に参加したり、研究活動をしたりが必要になる。私らしい臨床活動には精神分析理論が必要だけど、実践はもっと柔軟になってもいいのかもしれない。私自身の枠作りは、まだまだ始まったばかりだ。





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