見出し画像

#3 文化の主体としての個人と集団

私たちは「同じ文化」の中に生きていると言えるのでしょうか。私の考えは半分YES、半分NOです。




みなさん、こんにちは。Makiです。

唐突に何の話が始まるんだと思った方がいらっしゃるかと思います…笑

今回は私たちが生活する日常生活世界に遍く浸潤する「文化」について、私が日々生活する中で考えてきたことを書いていきたいと思います。

具体的には、そもそも「文化」とは何か、その意味や在り様、そして私がたどり着いた「同一文化圏における生の異文化性」という考え方についてです。

一つひとつで論文を書けてしまうくらいに内容が濃く、長くなるので、それぞれのテーマについて、ページを分けて書いていきたいと思います。


まず、このnoteでは「文化とは何か」について、山本(2015)と岡田(2014)の議論をベースに書いていきたいと思います。

かなり長い文章になってしまいましたが、興味ある方はしばし私の独り言にお付き合いください。


1.文化とは何か-辞書的意味

まず、「文化」とは何か。その辞書的な意味を引用すると以下のようになります。

人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ科学・技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治などの生活形成の様式と内容を含む

広辞苑

「ある民族・地域・社会などでつくり出され、その社会の人々に共有・習得されながら受け継がれてきた固有の行動様式・生活様式の総体

明鏡国語辞典

その人間集団の構成員に共通の価値観を反映した、物心両面にわたる活動の様式の総体。また、それによって創り出されたもの

新明解国語辞典


これらの辞書的な意味から、文化概念は4つのエッセンスに集約することができると考えられます。

  1. 文化には人間が手を加えた事物に加えて、集団内部の構成員が共有する心理的要素が包括的に含まれること。

  2. 文化と呼べるものは特に集団生活を営む人間がつくりだすとされること。

  3. 集団によって、文化と呼べるものには差があると想定できること。

  4. 集団生活の中で生み出される事物には集団内部の構成員が共有する心理的要素、すなわち価値観や意識が常に反映されていること。

これら4つのことから、文化はその内実が何であれ、集団を単位にして形成され、維持されるものであるということができましょう。

この文化概念について、特に人間はどのようにして文化というものを捉えているのか、という点から、さらに山本(2015)と岡田(2014)の議論を突き合わせつつ整理したいと思います。


2-1.山本(2015)の文化概念-文脈の存在

私たちは、お正月にはおせちやお雑煮を食べたり、初詣に行ったりします(いかない人も中にはいたり…?)。また、お祭りの際には浴衣を着たりすることもあるかと思います。

また、人との関わりでは「他者に迷惑をかけない」「他の人と協調すること」などが良いこととされたりする傾向があります。


これらの事柄が「日本の文化」と捉えられるのはなぜなのか。

それは、それら事柄自体に文化的要素が内包されているからではなく、それらの背景にある「文脈」が存在しているからとされています。

例えば、花壇に咲いている花と壺に生けられている花を比較する場面をイメージしてみましょう。

この時、前者の花には特別な文脈はないが、後者の花には仏前供花という仏教文化、室町時代から続く文化といった特別な文脈が存在していると言えます。

このように、ある対象の文脈を解釈することで、人は文化というものを感じ取ることができると山本はいいます。



2-2.山本(2015)の文化概念-文脈の比較

加えて、ある事物から「○○文化」という解釈が可能になるのはその事物を別の何かと比較することによります。

それゆえに、その時に解釈される文化の諸相も様々に想定できます。例えば、寺社という事物を基準にした場合を考えてみましょう。

  • 寺社に教会を対提示したときには、寺社の背後には「仏教文化」という文脈が現れる。

  • 基準とした寺社が東大寺の場合、比較対象に遊行寺(鎌倉時代のお寺)を提示した場合には、基準となっている東大寺の背後には「天平文化」という文脈が現れてくる。


このように、比較対象を何にするのかによって読み取れる文化・文脈も異なってきます。

この時、対提示する比較対象は個々人が恣意的に(≒自由に)選択することができるため、立ち現れる文化は主観の側が自由に決定できることになります。

すなわち、文化は主観によって生み出される対象であり、その意味で主観的なものであると山本は言います。

しかし、このような主観的現象は文化を集団から個人に安易に還元することを意味しているわけではないと考えられます。換言すると、この現象から「個人が文化を持つ」という言い方にはならない、ということです。

あくまで、この主観的現象は個人が集団や場を取り巻く情報を取り込み、状況適応をするための羅針盤になるものであるということができましょう。

このことは、個人の主観によって文化が見出されたとしても、それがそのまま事物を説明する語彙になるとは限らないことを示唆しており、山本もこの点を考慮して議論を展開しています。

このように、主観の働きによって事物の比較の文脈が定まっていくと、その文脈は私という個の認知の外部で、他者の主観によっても確認・共有され、一定の合意を得る可能性が生じます。

このプロセスで、個々の価値観が一致して共有されると個人の主観性は共通了解を支える関係を持つようになる。すなわち、文化は主観から見出されるものでありながら、その主観が三者間以上で合意できるとき、文化は主観の共通了解によって保証される客観性をもったものになると、山本は言います。

すなわち、主観が客観を支える関係になるというプロセスが、文化の立ち現れの中に存在している。つまり、ある事物や言動を説明する語彙の客観性は個々人の主観性に支えられており、その主観性の束をレファレンスにすることで客観性が立ち上がってくるということであるということができるわけです。

このように、文化は主観から現れるものでありながら、客観性を帯びるものでもあるというのが山本の主張です。


3.文化概念-岡田(2014)の議論

岡田の文化概念の考察のキーワードは「自律者」という言葉です。

岡田によると、自律者とは以下のような者であると指摘されています。

自律者は何よりも自分の意味世界を持っている者であり、それが促す行為の様式、思考の様式、感じ方の様式を持っている者である。つまりは自分の文化を持っている者のことである。

『共生社会への教育学』(p,27)

この自律者が行なう「自分の行為を自分の判断で決定(p,26)」するためには、次の2つのことができていることが求められています。

  1. 行為の選択によって対処しようとする対象物や事象の意味の解釈ができていること、すなわち状況の把握ができていること

  2. 行為を選択する主体自身の心的状態の把握ができていること

個人は状況の把握によって獲得された知識や経験が記憶として蓄積されるデータベースを持ち、これを岡田は「外部世界(p,27)」と、一方、個人の心的状態のことを「内部世界(p,26)」と呼んでいます。

この外部世界と内部世界は総合されることで「意味世界(p,27)」を形成し、個人はこの意味世界によって見出される「事象の原意味(p,27)」によって行動を動機づけられる。

すなわち、ここまでの議論をまとめると、「自律者」とは外部世界と内部世界を持つ者、つまり一定程度の知識とそれをまとめる認知構造の発達、そして自らの感情状態を把握する認知機能が備わっている者であるということになります。

そして、外部世界と内部世界をもって外界への意味付けを行ない、その意味付けから対象に働きかけていく主体である、ということになると考えられます。

加えて、岡田は「文化を持つこと」と「自律すること」の差異を我有化の段階にあるか否かに求めています。自律者は意味世界を持ち、それをもとにした行動様式・思考様式を持つ者です。

そして、岡田は「文化を持つこと」は「共同体の文化を共有すること(p,27)」と同義であるとしており、これは知識として文化を知ること、すなわち外部世界を知っていく段階を表していると考えられます。

すなわち、自律者は外部世界と内部世界の統合を行なっている者であり、この意味で共有化の段階では自律者たることはできないのです。

つまり、岡田の言う「『文化を持つこと』と『自律すること』の差異」は、彼が自律者であるのか否かを問うていることであると考えられます。

すなわち、外部世界としての文化の共有化の段階にあるのか、それとも共有化した文化を内部世界と統合している我有化の段階にあるのかという差です。

ここで、我有化の段階で焦点となった外部世界と内部世界をそれぞれ「集団の文化」と「個人の文化」と読み替えてみると、我有化は集団の文化と個人の文化を統合していくことと説明することができると考えられます。

そのことを踏まえると、自律者は「集団の文化と個人の文化の統合を通して、自らの思考様式・行動様式を構築していくことができる者」ということができます。

我有化が成立することは、個人が所属する集団で共有される価値観や意識を自己の内部に取り込み、それが個人の感情や行動に影響を及ぼすことということができます。これは子ども同士の小規模社会集団でも観察可能な事象として、岡田は考えています。




ここまでの議論を整理してみます。

山本と岡田の議論から言えることは、次のようなことです。
すなわち、山本の言う「文化」を感じる際に必要となる手がかりである「文脈」は岡田の言う「外部世界」に相当する面があります。

つまり、「文脈」のうち、意図の具体的内容である「仏教文化」のような、その事物に介在する背景のようなものは「外部世界」に相当すると考えられます。

経験論的発達観に則ると、個人はその発達の過程において出会うイベントや事物を元手に経験則や知識を獲得していくことになります。教育による知識の獲得もこれに従うものであるといえます。

「文脈」における知識的な面はその個人の養育や発達の過程において獲得されていくものであり、その知識的な面は学校教育で教えられる教科の知識もあれば、所属集団の価値観や規範、対人関係上の他者の特徴などその内実は多岐にわたります。

ある集団で共有されている価値観や規範はその集団の文化ということができます。個人はこうした集団に属しつつ、そこで共有されている価値観や規範を認知し、それらをその集団内で生起する出来事を通して摂取していく。

ここが岡田の言う文化の共有化の段階であると考える。我有化はここからもう一歩踏み込んだ段階、すなわち、摂取した所属集団の文化を内面化しつつ、それを個人の心的状態に照らし合わせて外界への意味付けを行ない、その意味付けに則って思考行動様式を創出していくことであると考えられます。


4.改めて問う「文化概念」とは何か

ここまでの議論を踏まえ、「文化概念」について再度考察してみます。

辞書的な意味では文化は「集団レベルで維持されること」「集団構成員の心理的要素を包括的に含んでいる」ことが主にその概念の要素として抽出されました。ここでは、文化という概念は集団レベルに依拠して記述されています。

その一方で、個人レベルに移ると文化はどのように映るのか。まず、何らかの言動やモノのやり取りは社会集団の対人関係内部で生起します。その対人関係における個人の言動や思考のあり様には、その個人が属する集団で共有される価値観や意識が反映されています。

そして、この価値観や意識は個人が外界の事物を解釈する方法やルールの決定因です。これらは個人が属する集団内で得た経験や知識に左右されると考えられます。

すなわち、ここでいう外界の事物の解釈は属する集団が異なれば、経験や知識の内実も異なり、その結果現れる思考様式・行動様式にも差が生まれることを意味しているといえます。

つまり、個人レベルでは集団で維持される価値観や意識、つまり文化が対人関係という具体的シチュエーションの中で表現されることになります。このことから、文化は「集団レベルで維持され、個人レベルで表現される」ものであることが示唆されましょう。

加えて、山本と岡田の議論によれば、個人が外界の事物を解釈する時に「文脈」、すなわち「意図」の読み取りには知識的側面が重要となることが指摘できます。

この解釈は主観的現象に依っていくため、個人がその内部に「意味世界」を保持していることが必要となっていきます。つまり、個人は直面する対人関係上の出来事について、その当の出来事に先行して得た経験や知識をもとにその場で主観的に適応的なふるまいを行なうと言えましょう。

この経験や知識は当の出来事が生起する社会集団に属する以前に所属していた別の社会集団で獲得されていくものであり、この個人と社会集団のつながりからも文化は「人が寄り集まることによって集団レベルで維持され、その集団に属する個人がその文化を共有することによって個人レベルで表現される」ものであるということができます。

そして、そこにはその集団特有の様式が存在しているが、この様式は個人に摂取されながらもその表現の仕方には個人差が生まれる余地があることも示唆することができましょう。


ここまでの文化概念に関する議論を整理すると図1のようになります。


図1 文化概念の整理図(筆者作成)


以上の議論を踏まえ、文化とは「集団レベルで維持され、個人レベルで表現される思考様式・行動様式、そしてそれらを規定する価値観や意識のこと」と定義できます。

また、これに伴い、異文化とは「集団レベルで維持され、個人レベルで表現される思考様式・行動様式、そしてそれらを規定する価値観や意識に差異があること」と定義することができると考えられます。


さて、ここまで文化概念について回り道をしながら考察を重ねてきました。

次の記事ではこの文化概念の考察を敲きに、私たちのコミュニケーションについて、考察していきたいと思います。



最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


Maki

この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?