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原発事故、大震災、精神科医として

東日本大震災が起きた時、ぼくは北海道の単科精神科病院(100床)のたった2人の医師の一人だった。

何かできることがあれば、と思っていたが、直後に東北大精神科医局から全国の精神科医に支援要請。当然ながら東北地域の精神科医療は深刻な津波被害を受けて多くが壊滅状態、しかも未だ当時は不明点が多いながらも、福島第一原発の事故は一触即発状態(2011年3月中旬)。

副院長で理事という立場だったが、「皆のためにも。後のことは私が全て引き受けます」と院長が言ってくださり、直ぐに呼応して単身現地に行くことに。先ず登山用品に赴き、零下15度でも保温可能な寝袋、当面暫くはサバイバルできる水食糧、ガスコンロ、ランタンその他準備。山登りの趣味が活きた。震災二日後には冬山縦走の装備を揃えた。

しかし交通路が事実上遮断され、山形から特別の高速バスで仙台入り。仙台を脱出する人は溢れていたが、仙台に入り込む人は極めて少なかった。事前に考慮したのは、行きはいいが、問題は帰り。大学院入学前、一時期、ある教授から誘われて「構造生物学」という分野の研究を志して勉強してたこともあり、放射線医学の他、量子力学と原子核物理学は主要な名著の数々は多少勉強はしていた。何をどう考えても2011年3月中旬以降、メルトダウンの可能性は極めて高いと認識。再臨界爆発は十分あると思ったが、現地は困っているというのだから仕方がない。

仙台から東京経由の交通は閉ざされていたので、再臨界爆発時を想定して、新潟から海路で北海道、山形から空路で北海道の2パターンを事前に手配。再臨界爆発になれば、郡山以南も影響を受けるのは必至。政府関係者や専門家の意見は、「原子炉は大丈夫」「再臨界(爆発)はない」の一点張り。

じゃあなんであんなに海水とホウ素じゃんじゃんつぎ込んでたのか。高校生でも分る。冷却も出来ず、壊れた原子炉の核燃料が集積して再臨界・核連鎖反応・爆発に至る可能性は極めて高いと思った。しかも支援先の目標は福島第一原発から50kmと離れていない。やれやれ。

現地に着いて、主に仙台以南ー福島原発以北の精神医療が壊滅して機能している医療機関が実質一つしかないというので、そこにゆくことに。実質、名取ー岩沼が中心。報道でもあったように、津波の被害がリアルタイムで伝えられたまさにその場所。名取の海岸ではまだ千体以上のご遺体が未発見で放置、という状況だった。

「仙台空襲の時はここまでではなかった」と古老の方に伺った。

建物の構造物は、津波によって基礎から全てもっていかれていた。津波の運動エネルギーの凄まじさに改めて驚愕。核戦争後の住宅街はこうなるのだろうと大真面目で確信した。仙台沖に米空母が停泊して医療支援を申し出ていたそうだが、政府は断ったと聴いた。全くもって理解出来なかった。

精神科医療機関が壊滅して、処方薬が途切れた方が現地に夥しくおられたので、その方々の全初診を担当。初診が連日朝から夕方までびっしりなので、連日へとへと。週に一度程度仙台の東北大医局で現況報告。医局ではおにぎりや炊き出しなどがあり、極めてアットホーム。まだ暗い国分町で、物資が不足してる中、お酒を飲みながら臨床医と垣根を越えて震災直後の医療を語り合って体験を共有できたのは貴重な体験だった。皆の笑い話になったが、先ず真っ先に放射線科医が去ったと。常識的に考えたらそうだろう。医療関係者で一番被爆線量が少ないのは実は放射線科医かと思う。IVR専門は別として。誰よりも熟知しているから。

当然ながら連日の診療は過酷だった。津波の影響で紹介状も処方履歴も残薬もなく、一番に考えたのはメインの処方を切らさないことと、PTSDを悪化させないこと。

大災害直後に詳細に掘り下げて被災体験を伺ってしまうと、PTSDの予後が悪化するという専門的な知見があり、被災体験は敢えて詳細に聴かないことを心がけた。ある日、積み上げられたカルテの住所がほぼ全て「山元町」「亘理町」で、不思議に思っていたら、親切な自衛隊の方がトラックで受診が必要な方を搬送してくれた由。敢えて詳細は聴かないといっても、ほぼ壊滅的な被災を受けたこの二つの町の患者さんを診察させていただくのは此方も辛かった。目の前で住宅や家族が津波で流された方が多く、必然話題として避けることが出来なかったが、最小限に極力止めた。

元々の北海道の精神科医療も放って任せてばかりもいられないので、4月には北海道には戻った。幸い懸念していた再臨界爆発は起らなかったが、案の定、原子炉が壊れて核燃料が溶けて漏れ出していたのは現地の方から詳細を伺った。しかし官房長官はあいも変わらず原子炉は大丈夫の一点張り。官房長官に寝ろという声が溢れていたが、真実を伝えてからお休みいただきたかった。原発から50km圏内に事故直後数週間滞在したので、自分の累積被ばく線量も微小ではなかろう、と思った。元より覚悟の上とはいえ。

その数年後、今度は福島原発から最も近い、原発以南最短の医療機関で長らく診療の中心を担ってきた医師が急逝され、その病院機能が存続の危機に晒されたので、やはり仕事の合間に二回ほどお手伝いで行かせて頂いた。勉強熱心なその先生の名残とカルテやスタッフから滲み出る亡き先生のお人柄に心が痛んだ。

つい数週間前、無痛性の鼠径リンパ節腫大を自己触知。ゴム様で硬い。可動性も良好。目立った下肢の外傷や皮膚炎症所見はない。φ2cm前後。研修医時代は血液内科でもトレーニングを受けていたので、圧倒的に入院患者さんの多いmalignat lymphomaの治療は随分担当した。

そんな訳で、直ぐに必要な検査をせねばならぬか、と思い数日前に施行。

結果は下の通り。組織の細胞診断をするまではなんとも言えないが、少なくともFDG-PETで想定していたような明らかな所見は出た。

原発事故、震災対応時、当時の政府の対応はあまりに酷いと率直に思った。現地の人を犠牲にしたのは明らかであり、棄民政策そのものだと感じた。

蛇足ながら、現在のSARS-COV-2における現政権の対応は当時とは比較にならないくらい、尚酷い、生命軽視も甚だしい、と強く日々思っている

炎症かもしれないし、malignantな細胞増殖かもしれない。今の段階でははっきり言えない。ただ、自分の出来ることをしていこう、という気持ちに変わりはない。なんのために出来ることをするか、というのは自明過ぎるが、「人の生命を保全することに力を尽くす」ことが目的であり、「生計を営む」ことはそれを行うための条件である。

英雄とは、自分のできることをした人である。ところが、凡人はそのできることをしないで、できもしないことを望んでばかりいるーRomain Rolland
If you are going through hell, keep going.
~ Winston Churchill

英雄になるつもりもなければ名聞名利も欲しない。惰弱な卑怯者になりたくないだけ。命を粗末に扱う連中は、仕事柄、好かない。

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