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Without Corona

現在、ぼくの住む東京では、いつの間に気づいたら、所謂新型コロナウイルス、SARS-COV-2と共存して生活することが提唱されていて、そう求められている。

ただ、一寸待って欲しいな、と思う。ぼくらが対峙している相手は、通常感冒を引き起こすライノウイルスやRSウイルス、アデノウイルスでなければ、毎年やってくる季節性インフルエンザウイルスでもない。法律で定められた指定感染症の中でも、最強にして最悪クラスの一類感染症であるSARSの臨床像をはるかに凌駕した、SARS-COV-2、そのものだから(感染症法上、改正・統合前のSARS勃興時期の指定感染症で一類としています)。

同じ一類感染症ー例えば、「ウィズ・エボラ出血熱」、「ウィズ・クリミア・コンゴ出血熱」「ウィズ・ペスト」「ウィズ・マールブルク病」「ウィズ・ラッサ熱」などと提唱したら、都民や東京で学んだり働きに来る多くの人々は、果たして許容できるだろうか?(そもそも一類感染症の臨床経験がある医師を国内で探す方が難しい)。

語るまでもなく、そんなことが無理なのは自明だろう。実際、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)として「指定感染症」と「検疫感染症」に指定する閣議決定がなされているが、SARSが一類感染症なのに、はるかに病態が深刻で感染力が比較にならないくらい強く、被害が甚大なこのSARS-COV-2が一類指定になっていない不可思議さには、個人的に些か少なからぬ疑問を抱いている。

一類指定にならなかった背景には深い大人の事情(春節間近でインバウンド収入激減のリスク回避、オリンピック開催を間近に控えていたこと、外国に対する政治的配慮、全国的な指定病床数の圧倒的不足、対応医療機関の防護装備の不足等々)があろうことは穿って重々理解するが、このウイルスの本質はSARSであり、それに驚異的な感染力が加わった世界史上最悪レベルの感染症である、という事実は幾度強調されてもいいのではないか。

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人畜共通新興感染症として、このウイルスが恐らく中国武漢を起点として、昨年末より全世界にアウトブレイクしていることは周知のことと思うが、人体に対するその臨床的破壊力は、総合病院の内科各専門科、外科、救急を経験した自分でも戦慄を覚える(お世話になった古巣は指定感染症病床を持ち、指導をしてくださった内科の先生は北海道で多くの患者さんを受け入れている)。

本年3月、ロンドンのインペリアルカレッジは驚くべき提言のレポートを発表し、このまま無策なら51万人のイギリス国民と220万人のアメリカ合衆国民が死亡し、感染期間において主要先進国も含めて81%もの国民が感染すると予測した。この報告を真摯に受け止めたイギリス首相がそれまで行なっていた集団免疫獲得戦略では夥しい犠牲者が出ることを悟り、完全に方針転換して厳格な都市封鎖を行い、そのことについて国民に強く理解を求めたことは記憶に新しい。結果、具体的経済支援を伴ったこの封鎖により、多くの人々の生命が守られたことは疑いがない。集団免疫獲得を目指して独自の道をゆくスウェーデンの現在の惨状からも、それは明らかだろう。明らかにスウェーデンの集団免疫獲得の戦略は失敗だった。

SARS-COV-2感染に伴うCOVID-19の症状は極めて多彩で、新規知見の各分野の論文(や査読前のプレプリント)は夥しく連日凄い勢いで更新されている。感染による影響は全身に及びサイトカインストームを伴う重症ARDSを肺に高率に来し、全身の各臓器に破壊をもたらし(就中、心臓、腎臓)心臓、肺などの血管に血栓・塞栓などの血液凝固異常をもたらす極めて致死性の高いウイルスである、ということは、病態の本質であり、中核だろう。小児では、川崎病をもたらす報告も最近は出てきている。そして、上述のように感染力は極めて高く、パンデミック の初期から極めて高い感染力の報告がなされてきた。おまけにウイルス自体のバイアビリティも極めて高く、SARSと同じくエアロゾル空気感染の可能性も非常に強く、まさに無敵感満載で、人類史上最強の病原体とすら思えてしまう。

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こんな猛獣みたいなウイルスと共存して安心な生活ができますか?

と、ぼくは率直にそう思う。実際、前述のインペリアルカレッジのレポートで我々が取るべき手段は「緩和」か「抑圧」の戦略であるとはっきり書かれており、重症者治療のみに焦点を絞り、厳格な社会的隔離を行わず、緩やかな感染拡大をもたらす「緩和策」は人的犠牲と医療インフラ崩壊に繋がるので現実的ではないと退けられている。

レポートでは、厳しい社会的隔離を伴う抑圧策をメイン据え、ワクチンが開発されるであろう18ヶ月間(それもうまくいかないかもしれないとはっきり書かれている)、抑圧策と緩和策を長期間組み合わせて医療インフラ崩壊を防いで、それまでの期間をなんとか凌ぐ方法が提唱されている。

日本はどうだろうか。緊急事態宣言、東京都ロックダウンという表向き抑圧的な政策が取られはしたが、世界中で普遍的かつ広汎に行われているRT-PCR検査の施行は極めて限定的で、感染疑い症状を呈する多くの患者さんが保健所や病院双方から多く検査、治療を拒絶された。かつ具体的な雇用保障、経済的支援を殆ど伴わずに広範な分野で営業自粛の制限がかけられたため、経済的に困窮する方が膨大な数に及び、大きな社会問題となっている

感染している可能性が極めて高い方も、なかなか検査や治療に辿り着かず、その結果、厳格な隔離策が行われず、感染は寧ろ水面下で拡大していた、というのが誰しもが感じている本当の実態と思う。幸運にも検査を受けることができたとしても、検査を行う時期により、偽陰性率が変動する報告もある。これは人知れない感染拡大を意味する。人知れず検査も治療もされずに亡くなった方が多くいる事実は、超過死亡統計からも明らかだろう。日本は実質、限りなく「緩和策」に近い「表向き抑圧策」が取られ、医療は現実、国内の主要都市部で次々と崩壊した。

「ウィズ・コロナ」という修辞の陰からは、これからも行政と医療機関の間で、症状や不安恐怖により、人知れず苦しむ人の微かな嗚咽が聴こえてくるようでならない。それは現実の感染に苦しむ人を「見なかったことにする」と同義であり、今後も感染による犠牲者を生み出し続けることに繋がる。

此処に至って結論は極めてシンプルである。パンデミックなんかない社会の方が断然いい。

科学的知見から、2022年まで長期、または継続的な社会的隔離の必要可能性が言われ、最悪2025年までにSARS-COV-2は再び勃興するかもしれないというシュミレーションすらある。また、感染して獲得した抗体もどうやら長続きはしない可能性があり、このウイルス自体のT細胞免疫回避機構まで論じられていて、事態は一見悲観的にも思える。無症候性感染者からの感染伝播の問題も重大な懸念ではある、

「にもかかわらず」絶望と悲観、諦観には組みしたくない。

「楽観主義は意志であり、悲観主義は気分である」ー哲学者、アラン

Without Corona-子ども達の明るい、健全な未来のために、不幸をもたらす障壁は取り去りたい。検査、隔離の徹底と有効な治療薬の活用で必ず人類はこの感染症を乗り越えられると信じる。また、有効で低廉安価で多くの人に行き渡るワクチン開発の成功を祈って止まない。

インフルエンザ感染は深刻なCOVIDー19を来す恐れが強いから、今秋以降の来るべき第二波に備えて今一度手綱を引き締めたい。

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