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手代(丁稚Ⅲ)。

30の頃、独立はしたものの、そんなに都合よく仕事が来るわけもなく、ヒマな時はアシスタントをやって食いつないでいた。メインはおっかない大先生と、面倒見のいい兄貴のような人。慣れてくると、今度はその兄貴先生のトラとして撮影に行かされる。行くのが嫌で空いているくせに頼む。帰るなり、どうやった?イヤなやつだったろ?なんて。
単発では頼まれてたくさんの人に付いたが、東京から来た方には、かなり真剣にウチに来ないかと誘われた。でかい企業のブツ中心でかなりぐらっと来たのは確かだけど、東京はバンドマンの頃に、しっぽ巻いて逃げ帰っているので、行く勇気は無かった。
 そうこうしてると、そのうち同行するライターなり、ディレクターなりが、直に私に仕事を振ってくる。喉から手が出そうになるが、さすがにこればっかりはカメラマンの矜持として、断固として受けなかった。どうしてもなら先生に許可をもらってくださいと。受けたらいいよと言ってくださる方もいたが、そのわけは値段的なこともあったようだ。こちらもまだ電話が頼みの自宅兼事務所なので、自前で撮影できる場所もなく、ブツ撮りなんぞ受けたら近くの貸スタか、先生のところへ頭を下げに行くかだった。これもあれこれ支払いをすると手間のわりに僅かしか残らなかったので、やっぱり自分で場所を持たないと駄目だな、と考えたりしてた。
そのうち本当に雑誌の仕事が忙しくなって、あまり手伝いに行けなくなったが、折に触れ、相談に伺ったり、出来上がった印刷物をもって見てもらいに行ってた。自分でスタジオを構えることについては、よほど覚悟しないと駄目だ、と脅されたり、大丈夫やってみろと背中を押されたりしたが、なかなか適当な物件もなく、先延ばしにしていた。きっかけは91年かな。同じ出版社から出ている雑誌三冊の撮影で、これでもかというくらい毎日撮影が発生して、そのうち1/3くらいが営業の仕事なのでギャラも良かったが、そこまでしてもギリ三桁まで届かなかった。上限が見えたので、真剣に探し始めたというわけです。その頃には時々、小さいけどパンフやチラシなど広告の仕事も入って来てたので、何とかなりそうな気配もあったし。夏の終わりからあちこちの不動産や巡りをし、仕事関係の知り合いに聞いたりしたが、なかなかこれはというのには出会わない。狭すぎたり、広くて天井も高いけど家賃がバカ高とか。もう電話と機材だけ置けて、テーブルトップぐらいは撮れるような小さなところで行くかな、とも考えたが、せめてバック紙が引けて人物が撮れる広さは欲しかった。11月ごろか、ようやくこれはという物件に行きあたって、一階だし、車も置けるし、中は好きなように使っていいと言われて、決めた。天井を抜いたり、床を直したり、ストロボや機材も買い足して翌年、92年正月にはなんとか稼働できる状態に。とりあえずこの先半年は仕事が0、収入無しでも大丈夫な状態にしてあったのだけど、内心びくつきながら、反面、何とかなるだろうと思いながら、うすら寒いスタジオでひたすら電話が鳴るのを待ってたのを思い出します。

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