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丁稚。

1984年、26歳とかなり出遅れたスタートでしたが、拾ってくれたのは、小さなコマーシャルスタジオでした。お前の歳ではどこも雇ってくれんぞ、と言われましたが時代が良かった。まだまだ需要のあったモノクロのフィルム現像、紙焼きが出来たので、アシスタントを兼ねた暗室マンとしての採用でした。
新聞チラシの制作会社のビルの一階にスタジオがあり、その撮影がメインですが、食品、食材、家具、カバンに洗剤、タイヤやオイル、宝石、和装洋装のモデルまで、ともかくありとあらゆるモノを撮っていました。それも手早く、出来るだけ簡単に、でも、そこそこの仕上がりで、です。この時に覚えたことが今でも基礎になってます。限られた予算と設備で如何にしてクオリティを上げるか、という方法。
そこは先生以下4名の小さなスタジオで、毎日9時から終電ギリギリまでとっても忙しく、撮影の助手からフィルム現像、紙焼き、納品や運転手まで、よくやってたと思います。おかげで半年も経たないうちにシャッターを切らせてもらえ、一年経つ頃にはほとんどの撮影をさせてもらえるように。
そこで2年ほど経ったころに、仕事で知り合った方の紹介で、今度は大きな規模のタングステン照明主体のスタジオへ。
ここでは建て込みのセットで、寝具やカーペット、カーテン、衣料など年2回の分厚いカタログと、外壁材メーカーの施工例撮影がメイン。
タングステンでのライティングはもちろん、4x5の操作や、フィルムでの画像合成、ミックス光でのフィルターの使い方、色補正や変換の技術、それと、いかに眠くならずに長時間車の運転をするか、なんていうことも覚えた。もちろんどれも役に立ってます。最近はHDRやらいろいろ便利な機能も付いていますが、もっと複雑なことをフィルムでやっていましたから。
ここでも1年くらいでシャッターを切らせてもらえるようになり、ようやくカメラマンとして、という矢先に、家の事情でそこを辞め、入院した父親のかわりに高校の卒業アルバムの制作をするはめに。関わったのは一年半ほどでしたが、アルバムの納品が済むと「もう絶対やらない」って宣言しました。30数年前ですから、まだいろいろある時代で「袖の下」とか「キックバック」とか、今では考えられない世界でした。(ひょっとしたらまだあるのかもしれませんが)写真の出来とかで評価されるならともかく、です。
ただ、こちらも突然だったので仕事のめどもなく、35以外の機材はほぼない、という状態で、その後はまあ大変でした。
最初に営業というか、ポートフォリオを持って飛び込んだのが、バンドマンの頃に世話になった方のいる関西の某情報誌の編集部でした。初仕事は音楽レビューのページのステージ写真の撮影でした。外タレから新人、ロックから民族音楽まで毎日のようにどこかのホールやライブハウスに出かけていました。当時はまだモノクロ。9時ごろには事務所に戻って、フィルム現像してべた焼き。日付の変わるころに梅田の編集部へ納品に行くと、そんな時間でも人が一杯でしたね。それからはじまって、チラシで鍛えた手の早さが評価されたようで、巻末のプレゼントコーナーの商品撮影とか、店取材、イベント撮影、インタビューとかもするように。
そうやって少しづつ仕事も増え、機材も買い足し、小さいながらも自分のスタジオを構えたのが1992年春でした。

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