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生物から見た世界 ユクスキュル

「ダニ」の話から始まるこの小冊子は、さまざまなジャンルの本で紹介されている。タイトル通り、様々な生物がこの世界をどのように捉えているかを実験や観察の事例を用いながら紹介している。

動物行動学や哲学からも注目される「環世界」という概念を、この世に送り出した本は、なんと約1世紀前に書かれた。

僕が初めて知ったのは、千葉雅也によるドゥルーズ解釈において紹介される「ユクスキュルのダニ」※1だった。伝聞の伝聞(千葉雅也←ドゥルーズ←ユクスキュル)だったものの、とても印象に残るエピソードだった。

その後、動物行動学の本をいくつか読む中で、どうやら「環世界」※2という視点は、動物の生態を見る上で基本となる考え方のように感じた。

先日noteで紹介した國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」でもユクスキュルの「環世界」は終盤のキーワードとして登場した※3。大哲学者であるハイデガーを批判し、乗り越えるためにユクスキュルの再検討が行われた。



こういう経緯を経て、僕はようやくユクスキュル本人の書いた文章に触れる。

様々な生き物を、その内側から理解しようとする姿勢、当時最先端の科学者が「彼ら(生物たち)の主観」という言葉を使う大胆さに感動させられた。



そろそろ、僕の話をしよう。

最後の章では、比喩的に人間ごと環世界についても言及されていた。例えば、物理学者や天文学者の環世界がある、など。
この部分こそ、國分功一郎が環世界間移動能力を発想したきっかけだろう。伊藤亜紗が視覚障害者と晴眼者の環世界※4というメタファーを用いたのも、終盤の各主観の環世界のぶつかり合いと職業的な環世界というユクスキュルの話の展開に乗っかったものに違いない。


僕も「ダニ」の例から、今デイで共に過ごしている、ある人のことを思い出した。目も見えず、音も聞こえない。おそらく触覚と嗅覚でこの世界を認識しているだろう彼のことを。

彼の世界は充実しているのか。というナンセンスな質問に対して、環世界的に返答できるなあとぼんやり思った。

確かに彼の世界において、全米が泣いた映画は存在せず、大人気テーマパークや何でも揃うショッピングモールも、近所のコンビニとさして変わらないだろう。何なら彼には広すぎる。

しかし、彼の世界において、意味あるもの(例えば、500mlペットボトル)が彼の手の届くところまできたら、彼は瞬時に反応するだろう。

そこで彼の中に起こっていることを、僕は想像するしかないのだけれど、それは単なる反射や刺激への反応ではなくて、僕たちが服を買ったりテーマパークで遊んだりするのと変わらないように思う。むしろ彼の方が僕たちよりも「安定」して楽しめている部分もある。人間の多くは移り気で不安定な環世界にいる。どちらが良いと簡単には言えない。

各自の環世界で、何を意味ある刺激と受け取るかは個々に違う。それぞれの行動に、客観的なジャッジなんてできない。環世界の中、つまり主観的に、それぞれがそれぞれに意味を与えながら生きている。



ここから僕が最近思うことに繋げてみよう。

「人それぞれ、みんな違ってみんないい」
そんなことは分かりきっている。
上記の発言や思想で見えなくなっているものがあるのではないか。そんな気がして僕はこの言葉を安易に使えない。

「人それぞれ」「みんな違う」
そう言うときの「人」や「みんな」は身近の知っている人たち、あるいはぼんやりとして曖昧な人間像ではないだろうか。


みんな、他人、他者。
そういう抽象的で自分にとって遠い人たちを、遠い存在のままにしておかない。

ユクスキュルはダニからカタツムリ、犬まで、それぞれの生物の環世界を想像ではなく、直接具体的に描こうとした。
彼と同じように1つずつ、1人ずつ丁寧にその相手の生きている世界の解像度を上げること。その環世界に近づこうとすること。

僕はこの本のメッセージをそのように受け取った。


「考え方は人それぞれ」と言うのは、思考停止の始まりだ。「あの人から見た世界」を想像することから逃げてはいけない。



※1 千葉雅也「動きすぎてはいけない」(河出書房)より

※2 環世界と動物行動学の概要については過去note参照

※3國分功一郎「暇と退屈の倫理学」


※4伊藤亜紗「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(光文社新書)より

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