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ゲンロン0 観光客の哲学 東浩紀

 誰しも世界平和を願っている。この世界から女性や黒人、他の民族に対する差別や偏見をなくすことを目指して努力する人々がいる。インターネットが普及した現代では、簡単に多様な考え方にアクセスできる。だから、世界には様々な立場の人がいることを、簡単に知ることができる。
 しかし、様々な立場があると知っているからこそ、誰かにとっての正義は、誰かにとっての暴力という認識も広まってきている。多様な意見が見えるため、特定の立場(多くは社会的弱者の立場)から、社会に働きかけることが難しい。ある集団にとってはメリットでも、他の集団からしたら大きなデメリットがあるかもしれないからだ。半世紀前であれば、女性や労働者の名の下に連帯できたかもしれない。しかし、今は一つの大きな物語を中心に団結して社会運動を起こすこと(※1)が難しい時代になっている。

 多様な背景を持った者たちが、より良い社会を作り上げていくための方法を模索すること。これが現代の哲学、特にポストモダンと呼ばれるグループに属する人たちの大きな関心だった。
 筆者はポストモダンにおいて重要人物の1人であるジャック・デリダの研究者である。デリダの哲学を背景に現代日本の文化を批評してきた。誰とでも繋がれるグローバルな時代に生きているはずなのに、過激なナショナリズム(※2)やそうした国際問題への無関心が蔓延している現状が本書の問題意識の出発点である。そこで筆者は「観光客」をキーワードに、より良い社会のあり方を思索していく。

 通信技術や移動手段の発展により、私たちは世界中を行き来できる。誰でも観光目的で海外旅行ができる時代であり、また外国からの観光客も増えている。改めて考えると、観光というのは不思議なものだ。自分の地域の歴史や文化に興味がない人も、観光という名目であれば、行き先の文化施設や歴史的資料を見て、新しいものに触れることがある。
 観光客はある意味「ミーハー」的であり、深い理解や関心を持ってその場所に訪れるわけではない。しかし、偶然入ったお店、たまたま知り合った人たち(=異なる他者)との出会いから、自らの姿勢や考え方を捉え直すかもしれない。
 これまで述べた通り、現代は通信・移動技術の発展により、異なる他者と簡単に出会えるようになっている。文化や価値観の異なる人との出会いは、新しい楽しみや面白さを生み出すだけでなく、不快感や痛みを伴う。グローバルを身近に感じながらも、肌感覚として、異なる価値観とのぶつかり合いに疲労を感じた人たちの不満やストレスが、過激なナショナリズムや社会問題に対する無関心に繋がっているのではないか。

 この問題の解決策として、筆者が提示するのが「観光客」の概念である。全く関心のない人たちがどのように変わっていくのか。あるいは差別的なシステムや制度にどのように働きかけていくのか。真面目に「差別はいけない!」と声を上げても届かない。様々な立場の人たちがいるので、団結して働きかけるのも難しい。
 そこで、筆者は観光客のように、不真面目に、偶然に、他者と出会うことを勧める。常に特定の活動に深く関わるのは難しい。でも、観光地に行くように、知らない文化に触れたら、考え方が変わるかもしれない。真面目に勉強するのではなく、ただ遊びに行ったら、偶然社会の問題と出会う。遠い社会問題が、自分ごとのように感じられる。そうしたきっかけを作ることで、ゆるい団結のようなものが生まれたり、生まれなかったりする。
 たまたまの偶然に期待する、消極的にも見える戦略であるが、丁寧な議論をしていたと思う。複雑な経緯で出版された本のため、これまで筆者が展開した議論や文脈を知らないと読みにくいが、最近の現代思想の概略を掴みやすいのは良かった。この本のなかから気になったことを調べたり、関連書籍を読んだりすることで、よりこの本の理解も深まると思う。

※1 20世紀に最も大きな力を持った「物語」として共産主義は重要な位置を占めていただろう。本書は「大きな物語」の崩壊後≒ポストモダンの時代から議論をスタートしているため、もし前後の文章のニュアンスが掴めない場合は女性や労働者、障害者などある特定の属性の人たちが団結して制度を変えてきた歴史から学んだ方が良いかもしれない。

※2 過激なナショナリズムのイメージとしては、アメリカの黒人銃撃事件やヨーロッパの移民の受け入れ反対運動、日本のヘイトスピーチなどが想像しやすい。こうした問題に(賛成反対どちらにせよ)深くコミットする層と、全くの無関心を決め込む層の二極化が現代日本においてもあるように感じる。

おすすめ文献

◯アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート「マルチチュード(上)」NHKBOOKS
「観光客」のモデルとして、この本のタイトルでもある「マルチチュード」という概念が重要な役割を果たしている。国家間の対立では捉えきれない、グローバルな戦争の時代において、変革を担うと期待されている新たな階級がマルチチュードである。

◯千葉雅也「動きすぎてはいけない」河出書房新社
フランス現代思想を扱う本の中ではよく知られた本。偶然性や不真面目さに注目する東浩紀の問題意識と、千葉雅也の生成変化論は近いように思う。

◯東浩紀「弱いつながり」幻冬社文庫
上記2つは専門書のため、読み慣れていない人にはかなり苦しい本だ。正直僕も専門外なので全てを掴み切れていない。一方この本は、Google検索や海外旅行といった身近な題材で話を進めていて読みやすい。筆者の立場や実際の活動も簡潔にまとまっている。

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