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「私は手話ができる」と言うこと

言語を学ぶときあるある

「どこまで使えたら◯◯語ができる」と言っていいか問題


 日本人は、英語の読み書き(他国と比較して)レベルが高いらしい。

 でも会話には苦手意識が強くて、外から見て英語の読み書きはかなりできる人でも「英語はできない」と言う場面も多いという。

 「わたし英語できます」と言うには、ある程度会話ができることが必要みたいだ。


 じゃあ手話の場合ははどうなんだろう。

 ゆっくり考える前に、手話が外国のほとんどの言語と違う点が2つあることを知っておいてほしい。


 一つ目は、読み書きが存在しないこと。

 言語研究のために手話を文字や記号で表現する手段はある。でも、日常生活で手話をその記号で表現することはない。

 手話の本には写真やイラストで手話が説明されているけど、あくまで単語を確認するための一手段であり、実際に会話して見て覚えるのが基本だ。
 参考書にかじりついても、手話はできない。


 二つ目の違いは、日本語の影響を強く受けていること。

 もしかしたらこんな勘違いしている人がいるかもしれない。
「日本語の単語を手話の単語に置き換えて手を動かしたら、手話として伝わるのでは?」
「だから日本語の影響というか、そもそも手話は日本語じゃないの?」

 いるかもしれないと言うか、実際そんな人がたくさんいるから、手話の本の大半は「言語」「語学」ではなく「障害」「福祉」のゾーンに並んでいるのだと思う。

 これらの誤解には細かく反論していきたいれど、今はざっくりとした話で済まそう。


 事実として、手話(日本の手話)と日本語は異なる言語だ。

 つまり、日本語の「わたし」「りんご」「食べる」が英語の「I」「apple」「eat」にある程度対応しているからといって、「I apple eat」とは言わないように、手話の単語を日本語の通り並べて表すだけでは全く不完全な表現になるということだ。

 ただし日本の手話(これも当たり前だけど国や地域によって手話は異なる)は、日本で使われているので、かなり表現や考え方が日本語に近いもの、もしくは日本語から「借用」した表現がたくさんある。

 だから手話は「日本語ではないけれど、日本語の影響を強く受けている」というちょっと複雑な経緯を持っていて、その結果「手話=日本語を手で表現したもの」という誤解が今も根強くある。

「借用」とは、文字通り外来語を借りてくることで、日本語でカタカナを使って表される言葉は大体借用した言葉だ。
 英語をたくさん借用して話すと、ルー大柴みたいな喋り方になる。手話も日本語の表現をルー大柴的に借りて会話をすることがある。




 そろそろどれぐらい使えたら「私は手話ができる」と人は言うのか問題に戻ってこよう。

 英語の場合、読み書きができても「できる」となかなか言えなくて、会話がある程度できるレベルでようやく「できる」と言えるらしい。

 ある程度ってどんなものなのか、人によって感覚はそれぞれだと思うけれど、共有できそうな例から「ある程度」のレベルを確認してみよう。

 日本人がアメリカ旅行に行ったとする。この旅行客は英会話のレッスンを受けたことはなく、中高英語の授業を受けてそこそこ勉強した程度で、しばらく英語には触れてこなかった。
 旅行客は1人で繁華街の飲食店に入り、メニューを指さしたり、カタコトの英語で注文し、食べたいものを無事食べることができた。


 もし自分がこの旅行客の立場だったら「私は英語ができる(できた)」と言うだろうか。

 広い意味では「できた」と言えると思う。どんなに拙くても現地でネイティブの人と直接やりとりして、コミュニケーションを取ったという意味では、自信を持って「できる」と言える。

 ただ、多くの人の感覚的には「できない」と言うんじゃないだろうか。


 上を求めたらキリがない(「難しい文法を説明できる」「ビジネス交渉で対等に渡り合える」みたいなレベルを求めていたら、ネイティブすらその言語を使えると言えなくなる)けれど、さすがに観光地でちょっと会話したぐらいで自信を持って「私は英語ができる!」と言う人がいたら、僕は苦笑いをしてしまう。

 「私はできる!」という気持ちで積極的に会話をして、言葉を学んでいく姿勢は素晴らしいけど、そのコミュニケーションの多くはネイティブの配慮によって成り立っていることも知っておくべきだ。


 上に書いた「I apple eat」の例から分かるように、シンプルな文章ならある程度意味が掴めたりする。それこそネイティブであれば、ある程度カタコトな喋りでも文脈で想像して会話ができる。

 観光客の拙い英語が通じるのは、現地のネイティブが文脈(飲食店や博物館など)やこれまでの旅行客とのやり取りの経験から、足りない要素を読み取ってくれているからだ。客側があの手この手で伝えようとし、店員側もこれまでの経験と勘で意図を掴んでいる。

 立派なコミュニケーションをしているけれど、ネイティブの日常会話とは程遠い。



 実はこの観光客の例、そのまま手話学習者に置き換えることもできる。

 手話学習者も初めは拙い手話で、自信なく表現する。ネイティブであるろう者は文脈や経験から足りない部分を補って読み取り、やりとりを重ねる。まさに観光客と現地店員の関係だ。

 そうした経験を積み重ね、少しずつ手話学習者も自然な日常会話ができるようになってくるのだと思う。


この「自然な」日常会話ができるという表現も厄介で、一方は自然にできていると思っていても片方は配慮したり文脈を補っている場合がある。それこそちょっと話せた観光客が「私は英語ができる」と思うかもしれないように。
 「できる」という気持ちは大切だけど、それは「自然な」会話ではないかもしれないことを忘れてはいけない。

 整理すると、僕が思う「◯◯語ができる」と言えるラインは、まず観光客のように何とかコミュニケーションを取れるというラインと、その次の段階として状況や場面にしばられず、日常会話が自然とできるというラインの2つがある。(その次に専門的な議論ができるとか通訳ができるみたいなものがあるイメージ)

 そして、一般的には二つ目のライン、日常会話が自然とできるレベルのときに「私は◯◯語ができる」と言いやすいと思っている。
(もちろん気持ち的には、一つ目の観光客ラインの時から「できる」と思って積極的にネイティブと会話することはとても大切)


 海外旅行をした日本人は、めったに他人に「私は英語ができる(できた)」と言わないと思うけど、手話学習者はなぜか勘違いして一つ目のライン(ネイティブに配慮してもらってコミュニケーションが成り立つレベル)から堂々と「私は手話ができる」と言う人が多い。


 ここまで書いている通り、少しでもその言葉を使ってやりとりした経験があれば「できる」と言えなくもない。誰しも初心者の時間がある。

 しかし、他の言語であれば観光客レベルでも、手話ならそれが日常会話レベルにできると思い上がっている人が一定数いるらしい。この点は僕もたくさん会ったわけじゃないから断定はできないけど、英語と手話で空気感の違いは確かに感じる。



 この空気感、つまり「手話は簡単ですぐできる」というイメージはどこからきているのだろうか。

 理由の一つは、英語の存在だと思う。

 多くの日本人が初めて触れる外国語は、中学英語(今は小学英語?)だ。読み書きを中心に勉強し、文法やスペルの正確さが求められる。そのため英語は、得意苦手が大きく分かれる「科目」としての印象が強い。またテストとして評価される以上、「できないところ」「わからない部分」が強調されやすい。そうした経験から、日本人はどれだけ読み書きができても「英語できない」と言うのではないかと思う。

 英語と比較して手話には読み書きがなく、文法を体系的に学ぶ機会もほぼない。会話中心に学んでいくため、講義についていけなくてリタイアということが起きにくい。また、会話なので多少間違っていてもすぐ訂正したり確認したりできる。


 そうしたことから試験ように明確な失敗経験もなく、初めは簡単に感じられるのだと思う。手話はむしろ深く付き合い会話していくようになってからようやく、細かな違いが分かり始める「玄人向け」な言語になっている。

 だからこそ、初心者の方が「手話表現はできます」などと言いやすい言語なのだと思う。


 もう一つ、理由としてあげるなら、手話に対する誤解もある。

 そもそも、日本語と手話を区別しておらず、ただ手話単語を並べれば良いと思っている人が手話を学び始めたら、単語としては英語や他の外国語よりも覚えやすく量も少ないので、簡単だと感じるだろう。


 手話が一つの言語として認識されていないことから、誤った「私は手話ができる」発言が生まれているとも考えられる。

 この「手話は言語」問題は本当に難しくて、これでまた別のブログが書けそうなので今回はこのあたりでおしまい。




簡単なまとめ

・新しい言語を学ぶときみんなどれぐらいできたら「私は◯◯語ができる」と言っているのだろう?

・ざっくり分けると観光客レベルと日常会話レベルの2段階あって、英語は日常会話レベルになってようやく「私は英語ができる」と言う人が多い。

・でも、手話は観光客レベルでも「私は手話ができる」と言う人が多い。

・手話に対する誤解が「手話は簡単だから、私もすぐできるようになった」という意識に繋がっている。

・「手話ができる」という気持ちは大切だけど、手話の奥深さやネイティブ(ろう者)から見た景色のことも考えてみよう。

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